優先接種はけしからん! どうにも予約が取れない! パニック状態の「ワクチン後進国」ニッポン。ならば、せめて治療薬が手に入れば心強いが、その効用についても百家争鳴で……。「イベルメクチン」を巡る世界の動きと、ここでも混迷する我が国の現状ルポ。

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 トレードマークの黒い茶人帽をかぶったその人物は、マイクに向かい明快な口調でこう語った。

「オーストラリアで研究をされている先生から(昨年の)3月ごろ、イベルメクチンは新型コロナウイルスの治療に使えるよっていう手紙を頂いたんです。効果があるなんて話はまだ世に出ていない時でした」

 今月8日、パシフィコ横浜で開かれた日本感染症学会の学術講演会。広々としたホールの壇上に立つ声の主は、2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智・北里大学特別栄誉教授(85)で、「古くて新しいイベルメクチン物語」という演題で講演していた。

 イベルメクチンは、大村博士の研究を基に開発された抗寄生虫薬で、熱帯の河川域で発生する「オンコセルカ症」(河川盲目症)などの発症予防のため、これまで30年以上、アフリカや中南米で計37億回が投与された。現在は新型コロナウイルスの予防や治療にも効果があると期待され、32カ国で105件の臨床試験が行われているという。

「一つの薬に対してこんなに多くの国や研究機関で臨床試験が一気に行われるのは、かつてない話です。規制当局は『治験の数が少ないからエビデンスとしては十分ではない』と主張していますが、私は必ずしもそうではないと思います」

 そう力説する大村博士が引用した、米国の医師団「新型コロナ救命治療最前線同盟」(FLCCC)の論文によると、臨床試験の対象患者約1万5400人にメタ分析が行われた結果、早期治療では82%、後期治療では51%、発症予防では87%の改善が認められた。

 このほか大村博士は、エジプトやペルー、ポルトガルをはじめ各国で行われた臨床試験や普及の結果を紹介し、イベルメクチンの有効性を訴えた。講演終了後、司会を務めた感染症の専門医はこう締めくくった。

「イベルメクチンは世界中で使われ、現在、大変な状況に置かれたインドでも国を挙げて使うことになりました。一方の日本はどうでしょうか。ただいま第4波の真っ最中。今までのようにのんびり治験をやっている場合ではありません。大村先生が開発した薬を使わず、お亡くなりになった患者さんには申し訳ない」

 日本国内でイベルメクチン論争が過熱している。その効用をめぐっては医学界でも意見が分かれ、治験も思うように進んでいない。同じアジアのフィリピンではドゥテルテ大統領自らが治験を指示し、先進国のドイツでも治験に向けた動きがみられる中、日本はワクチンだけでなく、治療薬でも「後進国」となるのか――。

 3月上旬、東京都医師会は記者会見を開き、海外で重症化を防ぐ効果が示されているとして、主に自宅療養のコロナ患者の重症化を防ぐ狙いでイベルメクチンの使用を提言した。

 一方、感染症専門医の忽那(くつな)賢志氏は2月末、ネット記事でこんな見解を示し、治療薬としての承認には疑義を呈している。

「私は『イベルメクチンが効かない』と言っているわけではありません。効くのかもしれませんし、むしろ効果が証明されてほしいと心から思っています。しかし、それを検証するためにはまだ十分なエビデンスがない、ということです」

 このほかの専門家からも「効くかもしれないし、効かないかもしれない」といった声が挙がっており、百家争鳴、「イベルメクチン騒動」が起きている。イベルメクチンは抗寄生虫薬としてすでに安全性が立証され、その上「効く可能性」もある。にもかかわらず、なぜ普及しないのか。

製薬会社が抱える「事情」

 背景にあるのは海外、特に先進国での評価だ。

 権威ある米医師会の医学誌「JAMA」は3月上旬、コロンビアで行われたイベルメクチンの研究論文を公表。軽症患者400人をランダムに二つのグループに分け、5日間連続でイベルメクチンを投与したグループ、プラセボ(偽薬)を投与したグループを比較した。この結果、コロナの症状が解消するまでの期間に二つのグループに統計的な有意差はなかったという。

 これに対して、米国の医学会に所属する医師174人(5月18日時点)が連名で、JAMAの論文には致命的な欠陥があるとする書簡を公開し、「このランダム化比較試験における評価項目が不適切に変更され、信ぴょう性を欠いている」などと批判した。

 JAMAと時期を同じくして、米食品医薬品局(FDA)や欧州医薬品庁(EMA)、世界保健機関(WHO)も立て続けに、「科学的根拠は極めて不確実」などとして、服用は臨床試験に限定するよう求めた。規制当局のこうした動きが、イベルメクチンの普及に歯止めを掛けているのだ。

 ただし日本では、医師の裁量で患者に処方できる「適応外使用」が認められている。

 日本国内で流通しているイベルメクチンの商品名は「ストロメクトール」と呼ばれるが、現在、品薄状態だ。実際、日本唯一の販売元、マルホ株式会社(大阪市)の広報担当者は、コロナの感染拡大に伴って注文が殺到したため、昨年4月から「出荷調整」していると認める。

 日本の製造元は、MSD製薬(東京都千代田区)で、親会社は米国の世界的な製薬企業、メルク社。前述の通り、これまでに約37億回分のイベルメクチンを供給してきた源だ。ところがこのメルク社も2月上旬、「科学的根拠はない」などと、自社製品の効果を否定する声明を発表した。親会社の意向に反することができないため、商品の「積極的な製造」を控えているのではないか。MSDの広報担当者は、製造状況についてこう説明した。

「新型コロナの医薬品としては承認されていないので、その患者に対しての製造はしてはいけない。あくまでイベルメクチンの使用が認められている疥癬(かいせん)、腸管糞線虫症の患者に継続的に提供できるよう、市場の需要をみて製造を続けている」

 メルク社はワクチンの開発を進めてきたが、今年1月に効果薄を理由に中止。他に二つの治療薬の開発も進めており、うち一つの開発にはバイオ医薬品企業を4億2500万ドル(約460億円)で買収した。しかしこれも4月半ばに中止が決まり、残る一つの経口薬の開発は継続中だ。こうした経緯を踏まえ、北里大学客員教授の八木澤守正氏(79)は指摘する。

「開発中止に伴う損失は、新しい治療薬の開発によって補填されます。経口薬はイベルメクチンと競合するので、後者を排除するため、その効果を否定する声明につながったのではないか」

 この疑問をMSDにぶつけると、こう否定した。

「科学的な根拠やエビデンスに基づき、イベルメクチンはコロナの治療薬として開発していないので、売り上げがどうとかは関係ない」

 一方で、製薬会社にとっては「新薬開発」こそが生命線なのもまた事実だろう。

 日本での「イベルメクチン不足」を尻目に、治験に関しては世界的にも動きが見られている。

 ドイツでは、国内最大の州である南部のバイエルン州を地盤とする中道右派与党「キリスト教社会同盟」(CSU)が4月下旬、イベルメクチンの臨床試験実施に向け、ドイツ政府に支援を要請する方針を示した。実現すれば先進国の取り組みとして他国に影響を及ぼす可能性もあるが、欧州医薬品庁は推奨していないため、CSUの運動がどこまで拡大するかは未知数だ。

 CSUの幹部は、イベルメクチンの臨床試験を推す理由としてこんなコメントを出している。

「ワクチン接種に加え、ウイルスに対する第2の壁が必要だ」

 ワクチン接種という「第1の壁」で出遅れている日本に、果たしてドイツのこの動きを無視する「余裕」はあるのだろうか。

 ドゥテルテ大統領の指示で治験が行われるフィリピンでは、科学技術省がすでに、2200万ペソ(約5千万円)の予算を計上した。医師主導型で、イベルメクチンを約1万人に配布する試みもみられ、予防効果が表れたという。

 フィリピンは日本と人口規模がほぼ同じ島国で、死亡者数は日本を上回るが、桁違いというわけではない。大統領の決断によるトップダウン方式でこのまま治験が進められ、医薬品として承認された場合、「政治力の差」が両国の明暗を分けるかもしれない。

「新興国のフィリピンと同列に語るな」

 そんな声も聞こえてきそうだが、国民にワクチンが行き渡らない現状では、高見の見物を決めこむことはできまい。

「できる防御はすべて」

 日本では北里大学が昨年9月、イベルメクチンを新たな治療薬として国の承認を得るため、治験に乗り出したが、厚労省の「お墨付き」を得られるのはまだ随分先になりそうだ。前出の八木澤氏が強調する。

「糖尿病やアルツハイマーなど周知の疾患に対する新規医薬品の審査には、長い時間がかかったとしても規制当局の先例に異論を唱える者は少ないだろうが、現在の世界的なパンデミックにおいて、そのような旧態依然とした審査方法では、有効で安全な治療薬の迅速な提供は難しい」

 つまりWHOや米当局が主張する「科学的根拠」は、新型コロナの感染拡大という緊急事態にそぐわないというのだ。従来通りの「悠長」なやり方でいいのかと。

 医療の現場に立つ医師からは現実的な声も聞かれる。ストレスケア日比谷クリニックの酒井和夫院長(69)は、自身でイベルメクチンを服用している。

「安全だし、効用については大いに期待している。日々、50人以上の患者と接しているので、できる防御はすべてしないといけない。ですが、手持ちのイベルメクチンはもう使い切り、問屋に問い合わせても『出荷調整中』と言われ、手に入りません」

 菅義偉首相は2月半ばの衆院予算委員会で、医師である立憲民主党の中島克仁議員から早期の承認を提言された際、「日本にとって極めて重要な治療薬と思っているので、最大限の努力をします」と前向きに答えた。

 全国民がワクチンを接種し終える時期は分かっていない。接種を受け付ける自治体は電話がパンクし、変異株の全国的な広がりに伴い、各地で医療崩壊が深刻化。特に大阪では死者数が急増してその数は東京を上回り、緊急事態宣言に対する国民の忍耐力も、昨年よりは遥かに落ちている。

 それでも尚、治療薬を承認するための「エビデンス」や「前例」はどこまで重視されるべきなのか。目の前で起きている現実を直視し、天秤に掛けるという「最大限の努力」もそろそろ求められる時期にきているのではないだろうか。

「賛成派」と「反対派」がせめぎ合い、「たかがひとつの薬」をめぐって停滞する社会。この状況こそが、「ワクチン後進国」と化した日本の脆弱性を映し出しているのかもしれない。

水谷竹秀(みずたにたけひで)
ノンフィクションライター。1975年生まれ。上智大学外国語学部卒。2011年『日本を捨てた男たち』で第9回開高健ノンフィクション賞を受賞。10年超のフィリピン滞在歴をもとに、「アジアと日本人」などをテーマに取材活動を続けている。

「週刊新潮」2021年5月27日号 掲載