歴史を遡れば、パトロンと呼ばれた庇護者の経済的支援なくして芸術家が多くの作品を残すことはありえなかった。現代の日本でも優れた作品や作家を保護する制度はあるとはいえ、十分ではないという。その一つが教育現場とも密接にかかわる「著作権」の問題だ。

 ***

「日本では著作権保護が遅れています。創造する人とその産物を保護しなければ、文化は育ちません」

 と、日本の出版における著作権の問題点を語るのは作家の浅田次郎氏だ。

「日本の出版文化は大変な財産です。書籍の出版点数は世界でも上位ですし、近年、書店はずいぶん減ったといっても、これだけ多くの書店がある国はよそにはありません。その出版文化を支える根幹が著作権です。しかし、日本では著作権者の権利を主張することは強欲だとされ、なかなか議論が進展しないのです」

物議を醸す教育現場での新制度

 海賊版や図書館の問題をはじめとして日本では長い間、著作権をめぐる議論が深まってこなかった。ところが、2018年、情報通信技術(ICT)を活用した教育を推進するためという理由で、文化庁の主導による著作権法の改正が行われた。それに伴い、21年から22年にかけて、教育現場で新たな制度が導入され、物議を醸している。

 その制度の名を「授業目的公衆送信補償金制度」という。教育のDX化を図るため始まったこの制度はごく簡単に言うと、小説や評論などの著作物のデータを教材としてメールで送信したり、リモート授業で使う場合、学校側が補償金を支払う代わりに権利者の許諾を不要としたものだ。

日本の「特異性」

 やや複雑な制度ゆえ、理解するには、まず教育現場の著作物使用に関する日本の「特異性」についての説明が必要だろう。

「日本の教育現場ではほぼ無条件で著作物が使われています。しかも、現状の調査もしていないので、どれほどの著作物が使われているかもわかっていない。著作権法35条が拡大解釈され、ひどい状況になっていると思います」

 と指摘するのは専修大学の植村八潮教授(出版学)だ。著作権法35条とは、著作物のコピーなどについて、本来は有償のところ教育機関においては、権利者に対し、無許諾・無償で行えると定めたものだ。学校の授業で先生から教科書以外の教材として本や雑誌のコピーが配られた記憶を持つ読者も多いだろう。それのことである。使用の範囲については、「必要と認められる限度」内で、売れ行きへの影響など「著作権者の利益を不当に害さない」程度、とされている。

著作権後進国

 ところが、現状はそれが守られているとは言い難く、多くの問題があるという。

「大学では本を1章丸ごとコピーして、100名を超える学生に配るということも耳にします。いくらでも著作物をコピーすることが可能で、35条のガイドラインを逸脱することが教育現場でまかり通っている。そもそも、海外では教育現場で著作物が使われた場合、対価が支払われるのは当然のことです。諸外国を見ると、アメリカやヨーロッパを中心に著作権者に対価が支払われており、多くの場合、それは行政予算、すなわち税金から賄われています」(同)

“著作権後進国”たる日本の場合は、と続ける。

「日本の教育行政は貧しく、文化庁にも力がないため、予算が獲得できない。だから、著作権者に補償金が払われず、著作物が使われても無償という、権利が制限される状況が続いてきました。要は“お国のため、教育のために我慢しろ”として、状況がこれまで改善されてこなかったのです」

スマホもスキャナーもない時代にできた法律

 著作権法が制定されたのは1970(昭和45)年である。制定当時はスマホもなければスキャナーもない時代だ。

 浅田氏が往時を回想する。

「昭和45年は僕が高校を卒業した年です。当時はガリ版で印刷していて、僕もガリを切った記憶があります。その後、湿式の青焼きコピーが普及し、その次が乾式コピーでした。ただ、45年当時は乾式コピーがとても高かった。1枚50円とか100円もして、自分の手書き原稿をコピーするのに大変なお金を払っていました。そのため、昔は簡単に複製などできず、悪用もされなかった。いまは当時と比べものにならぬほど、技術が進歩し、容易に複製ができます。その時代の法律のままでよいのか、疑問を感じています」

 その間、著作権法35条は2003年に一度改正されるも、「教育現場では無償で使える」という根本は変わっていない。制定から50年以上もの長き間に制度を変更していないことに驚きを禁じ得ないが、近年、タブレット端末などを教育現場に導入し、ICT教育を推進しようとする政府と文科省の意向で、「無償」という根幹を変えず、お茶を濁すように、一部の法改正が行われた。

 それが18年の著作権法改正である。

「補償金制度」のシステム

 それまで、メールやリモート授業など、外部サーバーを経由して著作物のスキャンデータを教師から生徒に送信する場合(公衆送信)は、著作権者の許諾が必要だった。それを無許諾で可能とする代わりに、補償金を導入したのだ。それが冒頭に紹介した「授業目的公衆送信補償金制度」である。

 この制度を利用する教育機関の設置者は文化庁が指定した管理団体であるサートラス(SARTRAS=一般社団法人授業目的公衆送信補償金等管理協会)に申請し、一定の補償金を払う。その金額は大学の場合、年額で学生1人あたり720円。高校は420円、中学校は180円、小学校は120円といった具合だ。払ってしまえば、いくらでも公衆送信は可能となる。

 文化庁著作権課の担当者によれば、

「この制度に関しては、施行がもう少し後になる予定だったのが、新型コロナウイルスの流行により、オンライン教育の需要が高まったことで、緊急的に施行を前倒ししました。20年度は無償で、21年度から有償で開始しています」

 いかほどの補償金が入ってきたかというと、

「21年度は約48億7千万円がのべ4万755団体から補償金として集まりました。これをサートラスの方で分配するという形になります」

 サートラスはこの分配補償金に関係するさまざまな業務を担う団体で、音楽、映像、出版、新聞など業態ごとの協議会がぶら下がっている。さらにその協議会に各業界団体が加盟しており、著作権者に補償金を払うことになる。

 例えば、書籍の著者であれば、サートラスに属する出版教育著作権協議会から各出版社を通じて、補償金を受け取る。

 ただし、問題はここからである。

補償金が分配されない権利者が

 本来であれば、各学校で教材として使われた著作物の著者全員に対し遍(あまね)く補償金を支払うべきだろう。ところが、サートラスはすべての状況を把握せずに、全国千校だけを抽出、千校の著作物の利用実態をもとに分配するのだ。

 サートラスの担当者に聞くと、

「権利者への補償金の分配にあたっては、21年度は千校、22年度は1200校に利用実態を報告していただき、それを基に計算します。もともと、教育機関が都度、利用許諾を取るのに手間がかかるのでこの制度ができたという事情がある一方、全く報告がなければ、権利者に分配ができません。そのバランスを取るために、サンプル校から報告をいただく形式にしています」

 そうなれば、当然、このサンプル校以外で著作物を利用されながら、補償金が分配されない権利者が数多く出てくることになる。

「サンプルから漏れた権利者をないがしろにしているということはありません。漏れが出てくることはあると思いますので、そちらについては共通目的事業で対応していきます」(同)

 共通目的事業とは、コミックの海賊版対策などサートラスが助成する著作権の保護や普及に資する事業のことで、権利者への分配とは性質が異なる。共通目的事業があるから、分配されない権利者がいてもいいという論理は成り立つまい。これのどこがサンプル調査といえるのか。やはり、本気で著作権を保護しようという気概も誠実さも感じられないのである。

「まだ十分に機能していない」

 学校の著作物利用に詳しい岐阜聖徳学園大学の芳賀高洋・DX推進センター長は、

「教育関係者が知っている権利者団体といえばJASRACくらいしかなく、サートラスによって、多くの権利者が集まったことは大変評価できます」

 としつつ、こう指摘する。

「ただ、学校で利用した著作物の全権利者への分配は難しく、まだ十分に機能していません。集めたお金を行き渡らせる仕組みづくりと、より多くの権利者の組織化は、今後の大きな課題です。もちろん、100%、権利者へ分配を行うのは大変な道ですが、当然、そこに向かっていかなければならない。JASRACも組織の安定には年月が必要でした。時間をかけて課題を改善していってほしいと思います」

「文化軽視」の行く末

 先の植村氏は、きちんとした対価が支払われることで出版文化は支えられているのだと、続ける。

「塩野七生さんは『ローマ人の物語』全15巻が完結した際、“1巻目を読者が買ってくれたから、2巻目が書けた。2巻目を買ってくれる人がいたから3巻目が書け、15巻まで完成できました”と語っています。つまり、私たちが買うことでしか、良いコンテンツは生まれない。教育現場で豊かな教材が無償で使えるのも良いことだと思いますが、そのプロセスの中で見合った対価を払う仕組みが必要なのです」

 さらに、浅田氏は「文化軽視」が国の存亡にもかかわるとこう警鐘を鳴らす。

「日本の近代国家としての歴史は150年ほどしかありません。それでも欧米諸国に追いついてきたのは、国民一人ひとりに、文学を含めた広い領域の学問を学ぶ教養主義が、明治時代に根付いたからです。私はデジタル教科書導入に反対ですが、それは検索ばかりで、モノを考える力が衰退し、教養主義を脅かすと考えているからです」

 そして、我々が著作権への認識を改めることも重要だと説くのだ。

「著作権を保護することはすなわち、教養主義の根幹をなす多様な文化を支え、ひいては、国家を支えることにつながるのです」(同)

 教育の現場のみならず、安易に著作権を踏みにじっていけば、国力を細らせていくことになりかねないのである。

「週刊新潮」2022年12月1日号 掲載