親日派朝鮮人の持つ資産を次々に奪い、活動資金にしていった「在日本朝鮮人連盟」。彼らが混乱期の戦後日本で圧倒的優位に立てたゆえんは、さまざまな優遇措置にあった。その最たるものは、2年に及ぶ「預金封鎖」下で、自由にお金が引き出せたことだった。

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 61万人を超える朝鮮人を傘下に収め、占領下の日本で圧倒的な力を持った在日本朝鮮人連盟(朝連)――。日本共産党の再建を支えた彼らの潤沢な資金はどこから調達したものなのか。

 これについて、いくつかの資料がある。例えば「もっとも重要な一財源は朝鮮人引揚である」と指摘するハーバード大学のエドワード・ワグナー教授の『日本における朝鮮少数民族』。また韓国側の資料では、終戦時に上海で陸軍少尉の任にあり、後に国際タイムズ論説委員、高麗大学亜細亜研究所研究員を務めた田駿の『朝総連研究』(高麗大学校亜細亜問題研究所)がある。本稿ではそれらに加えて、朝連の「総務部経過報告」や金斗鎔の遺した資料なども参照しながら、財源を探っていく。

資金源は?

 田駿は、その資金源を次のように整理している。

・一心会及びその他団体引き継ぎ分

・親日派個別的強要寄付

・帰国者財産管理処分関係

・帰国者退職金等関係

・帰国者運賃払戻分

・特配分関係

・封鎖預金関係

 本連載第5回で、朝連設立時、共産主義者が戦前からの日朝融和団体が持つ資金を奪って、その幹部たちを追い出したことを書いた。上記の「一心会及びその他団体引き継ぎ分」がそれに当たる。ここでその資金がどんな性格のものであったか、まず詳しく説明しておく(帰国者関係の財源は回を改めて書く)。

 政治犯釈放運動の中心人物であった金斗鎔は、朝連準備委員会で相愛会、協和会などの幹部と相談しながら、戦前戦中から彼らが蓄えてきた資金を革命運動の原資にしようと考えていた。そこで最初に目をつけたのが、一心会の資金である。

「朝鮮人の処遇改善」への感謝として結成

 一心会は1945年1月20日に誕生した。第85回臨時議会において、天皇が勅書で朝鮮人の国政参加を促すと、その要望を行ってきた各地の朝鮮人代表が東京に集い、「朝鮮人の処遇改善」への感謝として同会を結成したのである。そして天皇への奉仕事業として、埼玉県入間郡日高の高麗神社近くに「地下航空機工場」建設を計画、同胞より募金を集めたのだった。

 金斗鎔の『朝鮮近代社会史話』には中央協和会の「みたみ新聞」からの引用記事が紹介されている。それによると、

「地下航空機工場建設連絡委員二十余名は帝国ホテルに連絡事務所を設け、連日寝食をわすれて連絡協議をとげたのである。その結果ここに全国に類例のない『地下工場建設一心会』が結成されるにいたった。これは軍需省、厚生省、警視庁、中央興生会など各関係官庁との円満なる理解と後援によってなされたが、特にその間軍需省局の後援支持はまことに大きいものがあった」

約12億円を朝連の懐に

 この建設工事を受注したのは、日本の軍飛行場建設を請け負ってきた梅田組社長の孫海奎(梅田重夫)である。孫は戦時中、数千人の人夫を雇って軍施設の建設工事に当たり、また防空壕も作って、軍部からも朝鮮人人夫からも、人望を集めた人物だった。

 この地下航空機工場の着工からわずか5カ月で終戦を迎えたことで、一心会には巨額の建設資金が残されることになった。

 田駿は、その金額を具体的にこう記している。

「一心会地下飛行場建設を計画し、在日韓人の『赤誠』を表示したということで、約五百万円目標募金を行い、募金額は約三百五十万円に達した。これは工事費供託金として百五十万円が支出され、約五十万円が経費で支出され、結局百五十万円の残金があった」(『朝総連研究』)

 金斗鎔はこの金に目を付けた。

「これを奪取しこの奪取を合法化するために、朝連結成中央準備委員会に一心会幹部たちが参加したことを、黙って見ていた。そして朝連結成大会が終わった段階で、すなわち結成大会第二日に彼ら一心会幹部をはじめとする親日派粛清に全力を注いだということだ。これにより朝連は一心会の財政を合法的に引き受けたことになった」(同前)

 当時の150万円は現在の金額に換算すると、800倍の約12億円である。金斗鎔はその金額を組織ごと、朝連の懐に入れてしまったのだ。

新たに「在日朝鮮建国促進青年同盟」を結成

 朝連から追い出された権逸にも、一心会の資金についての記述がある。

「地下工場一心会は一九四五年一月頃結成され、地下工場建設の前渡金を軍需省から貰い、孫海奎氏の梅田組によって着工されたのは一九四五年三月頃と思う。(中略)着工後わずか五か月で日本は敗戦を迎えた。その時、残った資金の処理について会の中でいろいろな意見に分かれた。朝鮮人連盟準備委員会で『朝連』の結成に奔走していた私は、この資金は『朝連』の準備金に提供すべきであると主張したが、会長団は応じなかったばかりか、彼等はこれを流用していた。それを朝鮮人連盟の左翼グループが見つけて奪取すると同時に、これをきっかけとして一心会云々しながら私を非難し始めたのである」(『権逸回顧録』)

 その権逸は、朝連結成から1カ月後の11月16日、相愛会の朴春琴や親日反共幹部、一心会幹部らとともに、新たに「在日朝鮮建国促進青年同盟」(建青)を結成することになる。

朝鮮人初の国会議員

 ここで相愛会の創始者で、朝鮮人初の国会議員となった朴春琴にも触れておこう。

 朴は1906年に土木作業員として来日、やがて手配師となり、清水組、佐藤工業、飛島組、熊谷組などの仕事を請け負うようになった。そして関東大震災の朝鮮人殺害を目の当たりにして朝鮮と日本の融和・親睦の必要性を痛感、相愛会を作った。震災後の活躍ぶりは目覚ましく、朴は配下の労働者を総動員して震災の跡片付けをし、帝都の復興に大きく貢献した。その功績が称えられて名士の仲間入りをし、やがて国政選挙に出馬、衆議院議員となる。

 相愛会は朴の仕事と表裏一体で、人材派遣会社のような機能も兼ね備えていた。土木作業現場に朝鮮半島出身の労務者を斡旋し、人材派遣の斡旋料をとる一方、労務者が派遣先で差別待遇を受けたり、意思疎通がうまくいかなかったり、あるいは労賃の未払いなどの揉め事があれば、仲裁や和解の労もとった。いまでも朝鮮人を多数雇用した大手企業には、この組織の名に因んで「相愛寮」と名付けられた施設がある。

「暗殺すべし」

 しかし日本が敗戦国となり朝連が誕生すると、共産主義者たちは、軍の協力者である朴春琴をやり玉にあげ、「朴春琴ら9名を暗殺すべし」と騒ぎ立てた。そして実際に朴春琴邸は彼らの襲撃を受けるが、朴は不在で難をのがれ、しばらくは消息不明となった。張赫宙の「在日朝鮮人の内幕」(「新潮」1952年3月号)によれば、朴は戦後に「家屋敷数軒を、『朝連』に寄附し、献金をして、漸く『朝連』の懲罰を免かれ」たという。これは田駿の「親日派個別的強要寄付」に当たるだろう。

 1946年になると、朝連内には「特殊財産接収委員会」が設置される。朝連が大阪市中之島中央公会堂で開催した第3回全国大会(1946年10月14日から17日)で、韓徳銖(のち初代在日本朝鮮人総聯合会中央常任委員会議長)が行った「総務部経過報告」には、資金集めの一端が明かされている。

「日本帝国主義は朝鮮内でのみ搾取するのに足らず、朝鮮侵略の参謀本部である朝鮮総督府出張所を東京に置き、恒常的に圧迫と搾取の研究を行なった。それだけだろうか。民族意識を失くした売国奴、私利私欲に奔走する謀利の輩たちを手下にして、協和会だの興生会だの一心会だの相愛会だのと称して朝鮮民族をこの地球上から抹殺しようとあらゆる策動を行なって来たのだった。この反動輩たちは終戦の“ドサクサマギレ”に乗じてその財産を私物化乃至は乱用してウヤムヤにしようと務めた。これを知った朝聯は三千万朝鮮民族の一翼である在日同胞の代表機関として、これは容赦出来ないと早くから真相の調査に努力し、遂に一月六日特殊財産接収委員会(朴成発、鄭文玉、趙忠紀、李哲)を構成した」

共産主義者を頼った王家

そして同委員会が次のような財源を確保したことを記している。

「接収成果 一心会

現金 八一万九九六八円一三銭

用紙 百二十四連

鉄鋤 四五七丁」

 これは一心会から得た追加分であろう。また「用紙」という項目があるが、戦後の物資不足の中で、「紙」は入手が非常に困難なものであった。ここで接収された用紙は、「アカハタ」「前衛」に流用された可能性がある。

 続けてこの報告では、朝鮮李王家や他の親日団体の財産への処置にも言及する。

「李王家に対しては、もともと団体或いは個人の寄付強要があり、朝聯の同意なしの寄付行為等は一切厳禁するという通告文を発す」

 この寄付強要は、恐らく国際大学創立を名目に張斗天という人物が寄付を強いたことを指していると思われる。「在日朝鮮人の内幕」の中で張赫宙がこれに触れている。この時、李王家が張の脅迫から逃れるために駆け込んだのは、朝連の申外務委員長だった。王家が共産主義者を頼ったのである。

 その後、李王家は、先に登場した梅田組社長・孫海奎から金銭援助を受けている。孫は戦後、いったんは朝鮮半島に帰還したが、ほどなく日本に舞い戻った。この時、孫の人徳を慕って数千人の労働者が集まってきたという。「在日朝鮮人の内幕」には、孫が李王家に出入りしながら、米軍の飛行場の建設工事をするようになったいきさつも記されている。

個別的に親日派を脅迫

「総務部報告」にはこんな記載もある。

「朝鮮奨学会=十二月三日実質的に接収、理事改選し、学生同盟維持財団的性格で再出発。東京都興生会財産だった朝聯倶楽部建物及び現金二十五万円接収」

 興生会は日朝融和団体だが、「朝鮮奨学会」は、北朝鮮で財をなした日窒コンツェルンの野口遵が作った朝鮮人留学生のための奨学金団体である。

「同〔昭和〕十六年一月、野口遵の奨学寄附金一千万円(株券時価)を基礎として、新たに『朝鮮奨学会維持財団』が学務局に組織され、その実行機関として『朝鮮奨学会』が開設された。それで、これを中央協和会に所属させ、奨学道場などをつくって留学生の指導にあたらせ、さらに同十八年十月には財団法人に拡充された」(坪井豊吉『在日朝鮮人運動の概況』法務研究報告書)

 そのビルは、当初、朝連が活動拠点としていた。その資金も朝連の財源となった。『朝総連研究』には次のように書かれている。

「金斗鎔一派はその後、親日派粛清を朝連の正式運動として採択し、個別的に親日派を脅迫し、金品の献納として解決を図る方法を取った。朝鮮奨学会の財政も金額は少額で問題にはならなかったが、やはり一心会の財政のように朝連から奪取した」

預金封鎖と新円切替

 当然ながらこうしたお金は銀行に預けられている。だが戦後間もない日本では、預金封鎖が行われた。

 総力戦で敗北を喫した日本は、凄絶な戦後経済と向き合うことになった。帝国政府は膨大な戦費を捻出するために、国債を大量に発行した。戦争が終わると、国民への債務残高は国民総生産の2倍に膨らみ、政府はその膨大な借金を返済しなければならなくなったのである。そこで政府は国民に大きな負担を課す。それはまさしく「堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶ」財政再建政策であった。

 このため政府は1945年11月5日、「財政再建計画大綱要目」を閣議了解し、当初4千億円しかなかった国富に対して、1千億円弱の課税を想定し、10万円以上の資産に最大90%の財産税を課す特別課税を柱とする財政再建計画を公表した。翌1946年2月16日、経済の混乱を抑えるための緊急措置として、「経済危機緊急対策」を発表、同時に「金融緊急措置令」を発令する。

 ここで行われたのが、「預金封鎖」と「新円切替」だ。政府はすべての金融機関の預貯金を封鎖し、国民の引き出しを大幅に制限した。一定額を第1封鎖預金、それ以上を第2封鎖預金と分け、第1預金からのみ、世帯主は毎月300円、世帯員は100円までしか引き出せなくなった。そして同時に新円を発行、1円以上の旧円札は46年3月2日までしか使えないとした。

朝鮮人への特例

 この預金封鎖は2年も続くことになるが、一連の金融政策で政府は貨幣流通量を減らして極度なインフレを抑えるとともに、国民の財産を把握、財産税の導入を図った。家族や財産を失い、わずかな配給で飢えをしのぐ国民に、帝国政府は預金封鎖と重税を課し、追い打ちをかけたのである。

 だが朝鮮人は、特別の扱いを受けていた。

 公安調査庁の坪井豊吉の『在日朝鮮人運動の概況』によると、朝連は預金封鎖を受けて大蔵大臣宛に「現金預金等支払許可申請」を提出している。

「二十年三月現在の在日朝鮮人の第一、二封鎖預金は約三億円に達していた。そこで朝連では、五月九日大蔵大臣あて『現金預金等支払許可申請』を出している。そのなかには、本部と地方組織の支払分一ヵ月使用予算支出のためとして、内訳朝連二千万円、建設同盟百万円、青年同盟四十万円、商工会二十万円となっている」

封鎖された旧円の預金を現在の貨幣価値に換算すると

 ちなみに「建設同盟」は朝連に属しておらず、「青年同盟」は架空の組織である。

 田駿の『朝総連研究』にも、ほぼ同様の記述がある。

「総司令部は占領と同時に預金封鎖を実施した。これにより旧円の預金は封鎖され、この時在日韓人関係の封鎖額は約三億円と推計された。朝連は一九四六年五月五日に大蔵大臣に『現金預金等支払許可申請』を提出した。この申請書の内容は、本部および地方組織の支払分一ヶ月使用予算として、朝連二千万円、建同百万円、建青四十万円、商工会二十万円となっていた。これは封鎖された預金を朝連名義で特別に引出せるということであった。事実上このような特典を利用して在日韓人は朝連に預金引出しを委任し、この時朝連が建同と建青組織の名義まで借りたことは、秘密裡にその名義を盗用したためであった」

 封鎖された旧円の預金の3億円は、現在の貨幣価値に換算すると、2400億円ほどになる。また朝連が5月に大蔵大臣に提出した現金預金等支払許可申請額の合計額を換算すれば、172億8千万円である。

多数の朝鮮団体名で多額の新円が引き出され…

 この5月の申請に相当するものではないが、実際に政府が封鎖預金の支払許可を出した記録がある。『朝鮮、中国、関係団体一覧表(封鎖預金支払許可の参考)』という資料(1947年1月17日)である。これによると朝連は、朝連名義や多数の朝鮮団体名で多額の新円を引き出している。

 その項目を見ると、「一ケ月の許可基準」が「一五、〇〇〇千円」とあり、「自由支払許可」の項目に、

「六月 二〇、〇〇〇千円

七月  一〇、〇〇〇千円

八月  一二、三一〇千円

九月   八、〇〇〇千円

十月  一五、〇〇〇千円

十一月 二三、〇〇〇千円

十二月 二一、五〇〇千円

一月  一〇、〇〇〇千円」

 とあって、毎月引き出されていることがわかる。

 この他にも、在日本朝鮮居留民団、朝鮮建国促進青年同盟、在日本朝鮮商工会、大韓建設協会、朝鮮奨学会、在日本朝鮮人生活援護委員会など、十数団体の申請に応じて封鎖預金が支払われている。

 次回以降に詳述するが、朝連の預金には、引揚者から得た資金も含まれていた。朝鮮人が帰還の時に多数の「銀行貯金通帳・郵便貯金通帳を朝連に預けさせた」(エドワード・ワグナー『日本における朝鮮少数民族』)からである。

無力の日本商人

 大蔵省は金融措置の実施後、朝連や他の諸団体から支払い申請が出されると、弾力的に対応し、さみだれ式に運用の改定を行っていった。大蔵省財政史室が編集した『昭和財政史』第12巻金融編にはこうある。

「改正は、措置令自体については七回、施行規則については二十四回にわたって行われ、告示や通達による実質的変更もまた多く、ほとんど原型をとどめぬままになった。その改正の中心は、『封鎖預金等』の引出制限に関するものと金融機関と資金融通規制にかんするものが大部分であった」

 9月2日に帝国政府が降伏文書に調印してから、日本の統治権は連合国軍総司令官に移り、これら預金封鎖の特例の適用は、占領軍と在日本朝鮮人連盟とその関係先に限られていた。大蔵省がGHQの政治的圧力に屈し、戦後の庶民の生活を苦しめた預金封鎖から朝連や各種朝鮮人団体を適用除外にしたのなら、進歩党員・椎熊三郎が1946年8月17日の帝国議会でふるった熱弁も、単なる朝鮮民族への反感とは片付けられないだろう。

「朝鮮人は、すべての闇市場活動の中核をなし、またかれらの無法な行動は今日の日本のすべての商取引や社会生活に影響を及ぼしている。かれらは警察をはばからず、輸出入禁制品の取引を誇示し、またなんらの税もはらっていない。流通新円の三分の一は今やかれらの手中にあるとの風評がある。石橋湛山大蔵大臣は一週間前、国会で五百億の流通円のなかの二百億円は『引き揚げずに日本に残っている第三国人の手の中』にあると述べた。もしこの風説にして真実とするならば、無力の日本商人は、それら朝鮮人・台湾人の全体と対抗できない。事実、大阪・神戸においてはすべての露店・飲食店は朝鮮人・台湾人の手中に帰したといわれている」

 つまり朝連の革命家が、当時の日本経済の一翼を担っていたことになる。

(敬称略)

近現代史検証研究会 東郷一馬

「週刊新潮」2022年4月14日号 掲載