ベオグラード(セルビア)で行われているレスリング世界選手権。5日目となる9月20日は日本人選手の活躍が目覚ましく、現地で取材をしていると外国人記者に「コングラチュレーションズ(おめでとう)」と声を掛けられた。女子50キロ級の須崎優衣(キッツ=24)と女子57キロ級で桜井つぐみ(育英大=22)が連覇、さらに女子76キロ級の鏡優翔(東洋大=22)も初優勝するメダルラッシュぶりを見せ、場内に立て続けに「君が代」が流れた。【粟野仁雄/ジャーナリスト】
五輪王者の貫禄を見せつけた須崎
女子50キロ級を制した東京五輪チャンピオンの須崎は、前日にパリ五輪の切符も射止めている。これで4度目の世界王者となり「本当にうれしく思います。支えてくれた人たちに今回の優勝を捧げたい」と笑顔で語った。
1回戦から圧倒的な力を見せつけ、得意のアンクルホールドを駆使して短い時間で勝ち上がった。決勝の相手は昨年も世界選手権の決勝で対戦し破っていたモンゴルのオトゴンジャルガル・ドルゴルジャフ。開始直後こそ両者の力は均衡したが、須崎は五輪王者の貫禄を見せつけ、相手が少し体勢を崩した隙を逃さずに片足タックルを仕掛け、試合の流れを一気につかんだ。相手が体勢を崩すと、左足をつかんで素早く背後に回り、開始50秒で2ポイントを先制。潜り込んですかさず相手の両足をつかむと、アンクルホールドでローリングを重ねて一気に点数を積み上げ、テクニカルスペリオリティ(旧テクニカルフォール)で勝利した。
「去年と同じ相手で(優勝した)同じ場所だったので、いい流れかなと思った」と振り返った須崎は、まだ公式戦で海外選手に無敗である。
五輪2連覇の期待がかかる
囲み取材で須崎は、3週間前に膝を負傷し、右足を引きずる時期もあったと吐露した。
「苦しい時間だったけど乗り越えることができたので、今後の私にとっても大きな自信になると思った」(須崎)
東京五輪に出場した女子選手の中で、今回の世界選手権のマットに立てたのは須崎だけだ。当然、パリで五輪2連覇を目指せるのは彼女だけである。
4連覇の伊調馨(39)、3連覇の吉田沙保里(40)、2連覇の金城(旧姓・川井)梨紗子(28)の活躍で、近年の女子レスリングは五輪連覇が当たり前のように感じることもあったが、厳しい世界なのである。
忘れない4年前の悔しさ
前日の中国のゾウ・フェン(周鳳)との準決勝では少しもつれた場面もあったが、須崎は「自分の得点と思ったら相手の得点だった。でも、想定外になっても絶対に勝つと信じてました」などと冷静に振り返った。しかし、いつものような笑顔で、はきはきと語ってくれたが、急に「経験したことない苦しさも……」と涙顔になった。
須崎がここで盛んに口にしたのは「4年前」のことだった。
2018年、当時、早稲田大学に在籍していた須崎は、リオデジャネイロ五輪のチャンピオン・登坂絵莉(2022年引退=30)を圧倒的なスピードで倒し、「東京五輪出場は間違いない」と思われた。
2019年6月の全日本選抜選手権にも優勝。ところが、前年12月の日本選手権王者・入江(現・田中)ゆき(自衛隊=31)とのプレーオフに敗れ、その年9月のヌルスルタン(カザフスタン)での世界選手権に出られなかった。この時点で須崎の五輪出場の可能性はほとんどなかった。だが、たまたま入江が世界選手権で不調だったため、3位に入れずに五輪出場権が取れず、須崎の首の皮一枚が繋がる。そして大逆転で東京五輪の切符を手にしたのだ。
プレーオフで入江に敗れた時、床にうずくまり号泣しながら、元世界王者の吉村祥子コーチ(54)に抱きかかえられるように会場を去った姿が今も筆者の眼に焼き付いている。
「世界チャンピオンとしてパリ五輪に出ることが目標でした。ここ(世界選手権)での悔しさは、ここでしか晴らせない。オリンピックチャンピオンになってもその悔しさはずっと変わらなかった」と須崎は話した。
4度目の世界一となった今もなお「4年前」の悔しさを決して忘れていないことこそが彼女の強さなのだろう。「また日の丸を一番高いところに掲げて、君が代を歌おうと気合が入った」と24歳の須崎はパリを見据えた。いずれにせよ今大会の須崎は、大けがでもしない限りパリ五輪での金メダルは間違いないと思わせる無敵ぶりを見せつけた。
重量級では20年ぶりの優勝
女子76キロ級では鏡が念願の初優勝を飾った。前日には準決勝でキューバの選手をタックルから5対2で破り、パリ五輪の切符を手にしていた。
鏡は「これまでウィニングランのチャンスになると負けていた。頭の中でウィニングランする自分の姿を描いてきた」と話した。それが初めて現実となり、日の丸を背にマットを走る鏡の笑顔がはじけていた。
「今まで見ている景色とは違った。周りがキラキラ輝いて見えた。幸せなウィニングランでした」(鏡)
決勝の相手はキルギスのアイペリ・メデトキジだった。過去にも何度か対戦し、直近の対戦では負けていたが、そんなことが信じられないような試合を展開した。第1ピリオドこそ見合う時間が長かったが、第2ピリオドから鏡が猛攻に転じ、相手の負傷棄権もあって8対0で優勝した。
「最初はどこでタックルに来るのか見てしまったけど、僅差では勝てないと思って攻めた。少ないチャンスからペースがつかめた」(鏡)
骨格的に外国選手に劣る日本人。世界選手権での女子レスリングの最重量級の日本人優勝は20年ぶり。2003年のニューヨーク大会で、72キロ級の浜口京子さん(45)が5度目の優勝を飾った時以来である。
「20年も勝てなかったんだと思うと、これまでの重量級の人の思いを背負ってきたので、実現できてうれしい。日本の重量級はダメだと言われていたけど、そんな壁なら自分が取っ払ってやろうと思っていた」と鏡は力強かった。
「泣きながら練習してきた」
最大の試練は準々決勝だった。世界選手権6度の優勝を誇る米国のアデリアン・グレイに鏡は4対1で勝利した。
「アデリアンは双子のお子さんを生んで練習できなかった期間もあったはず。負けられないと思っていた。この子(自分)には勝てないと思わせるつもりだった。7回目(のグレイの優勝)は、私が阻止するつもりでした。ひるむことはなかった」(鏡)
「2対1とかのギリギリの試合では世界一になれない。自分は最後まで攻め続けないと」が信条だったという。
「急成長した中、相手を上回るものは何か?」と聞かれると、鏡は「練習量です」と語気を強めた。
「みんなが昼寝している時でも頑張った。泣きながら練習してきたんです。朝はウェイト、昼はバイク、夜はマットでした」(鏡)
「カワイイ」マウスピース
山形県出身で、栃木県で育った鏡は、子供のころはラグビーをしていた。レスリングに転向し、中学3年の時にJOC(日本オリンピック委員会)の養成機関「エリートアカデミー」に入り、次々と国内外のジュニアタイトルを獲得した。
高校時代はインターハイで3連覇を果たし、高校2年の時に全日本選手権で優勝、翌年のアジア選手権でも優勝する。2020年に入学した東洋大学で階級を76キロ級に上げた。一昨年は全日本選手権で優勝したが、昨年は試合中に胸を負傷してしまい棄権。手術のためマットから離れたが、リハビリに取り組んで復帰した今年の全日本選抜選手権を制した。茂呂綾乃(山梨学院大=18)とのプレーオフを勝ち上がって世界選手権のマットに立っていた。昨年の世界選手権は敗者復活戦から勝ち上がり3位だった。
他の日本選手は試合になると緊張した表情で入場してくるが、鏡はスタンドの応援団に笑顔を振りまきながら入ってくる。スタンドには母親が駆けつけていた。それを聞くと「あとは楽しむだけと思った。緊張もしなかった」と返ってきた。
いつも上に向かって伸びるひまわりの花が大好きだという。根っからの明るい性格もひまわりそのものの印象だ。最後にUWW(世界レスリング連合)の広報に「パリの印象を一言で」と求められると「エッフェル、あっフランスパン」と笑った。
はじけた笑顔のマウスピースには「カワイイ」と書かれている。「そんなマウスピースって売っているんですか?」と筆者が聞くと、「特注なんですよ、可愛いでしょ」とのことだった。
「おしゃれして可愛いとかがモチベーションになるんです」(鏡)
粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。
デイリー新潮編集部