今月11日、虚血性心不全で亡くなった野村克也氏(享年84)。選手としても監督としても輝かしい実績を残し、様々なエピソードが残っているが、その中でも“らしさ”を最も発揮されたと言えるのが選手の再生術である。他球団で成績が下降した選手や、成績を残すことができなかった選手が次々と活躍する姿は『野村再生工場』とも言われた。どのような選手が野村のもとで再生したのか、また彼らがなぜ再生することができたのか、改めて振り返ってみたい。

 野村再生工場というとヤクルト監督時代のイメージが強いが、選手兼任監督だった南海時代でもその手腕は発揮されている。東映(現・日本ハム)在籍わずか1年でトレードとなり、移籍1年目からいきなり先発の柱となった江本孟紀などが最初の代表例と言われるが、さらに見事だったのがその江本を放出して阪神から獲得した江夏豊の再生だ。阪神時代の晩年は故障で大きく成績を落としており、南海移籍1年目も6勝12敗と大きく負け越している。そんな江夏に対して野村は「一緒に野球界に革命を起こそう」という口説き文句でリリーフ転向を決意させ、球界を代表する抑え投手へと蘇らせてみせたのだ。江夏の南海在籍はわずか2年と短かったものの、その後移籍した広島や日本ハムでも大活躍を見せ、“優勝請負人”とも言われた。野村のこの一言がなかったら、伝説として語り継がれている1979年の日本シリーズにおける「江夏の21球」も生まれることはなかっただろう。また、投手の分業化が進んだという意味では、まさに野球界の革命だったと言える。

 そして、冒頭でも触れたように、再生工場としての手腕が最も冴えわたったのがヤクルト監督時代だ。投手で再生工場の最高傑作と言われたのが田畑一也である。ダイエーの入団テストを受け、91年のドラフトで全体でも最後となる10位でプロ入りを果たしたものの、在籍4年間での成績は43試合に登板して2勝2敗という数字に終わっている。

 だが、95年のオフにトレードでヤクルトに移籍すると、いきなりローテーションの一角に定着して12勝をマーク。そして翌年には15勝5敗とチームの勝ち頭となり、リーグ優勝、日本シリーズ制覇の立役者となったのだ。主力としての活躍はこの2年間だったものの、全く実績のなかった選手がトレードによってここまで大きく飛躍した例は、前述した江本とこの田畑が双璧と言えるだろう。

選手たちの共通点

 田畑が大活躍を見せた97年、野手で周囲を驚かせる復活劇を見せたのが小早川毅彦だ。83年のドラフト2位で広島に入団し、新人王を獲得するなど中軸として活躍したが、90年代に入ると野村謙二郎や前田智徳、江藤智などの台頭もあって徐々に出場機会は減少。96年のオフに広島を自由契約となり、そこに救いの手を差し伸べたのが野村率いるヤクルトだったのだ。

 迎えた巨人との開幕戦、相手先発は3年連続で開幕戦完封勝利を挙げていた斎藤雅樹。その斎藤が3ボール1ストライクから緩いカーブでカウントを取りにくるというデータを活用した小早川は、なんと3打席連続ホームランを放ち、チームを勝利に導いたのだ。この年の小早川の成績は77安打、12本塁打、33打点だったが、その数字以上にライバルである巨人のエース斎藤を完璧に打ち崩したというインパクトは大きかった。現に斎藤はこの年、成績を大きく落としている。小早川の三連発がなかったら、シーズンの行方も大きく変わっていた可能性があるだろう。

 阪神の監督時代は3年連続で最下位と結果を残すことができなかった野村だが、ここでも再生工場としての手腕は発揮された。その代表例と言えるのが遠山奬志だ。八代第一高校から85年のドラフト1位で阪神入りし、一年目にいきなり8勝をマークするなど将来のエース候補として期待されたが、その後は故障もあって低迷。トレードで移籍したロッテでは一時野手に転向したが、97年オフに自由契約となり退団して、古巣阪神に投手として復帰したという経歴を持つ。

 復帰当初も結果を残すことができなかったが、2年目に監督に就任した野村の勧めでサイドスローに転向する。さらにシュートをマスターしたことでピッチングの幅が広がり、左打者相手のリリーフとして見事な復活を遂げたのだ。特に当時全盛期を迎えていた松井秀喜(巨人)を完璧に抑えたことで“松井キラー”として有名となり、また2000年には右サイドスローの葛西稔と相手打者の左右に合わせて投手と一塁手を交代し合って登板する『遠山・葛西スペシャル』でも話題となった。

 最後に監督を務めた楽天では、やはり山崎武司に触れないわけにはいかない。中日では96年にホームラン王を獲得するなど中軸として活躍したが、徐々に成績を落として自ら志願して2002年オフにトレードでオリックスに移籍。だが、移籍2年目の04年には当時の伊原春樹監督との確執もあって成績を大きく落とし、オフには自由契約となっている。そのまま引退も考えていたというが、楽天の初代監督となった田尾安志の熱心なオファーもあって現役続行を決意。翌年、野村が監督となると徐々に配球を読む力を身につけて、楽天移籍3年目の07年には43本塁打、108打点で二冠王に輝いたのだ。39歳となるシーズンでの大ブレイクは“中年の星”としても大きく取り上げられた。

 ここで紹介した選手以外にも野村のもとで大きく飛躍した選手は少なくないが、どの選手も共通しているのはプロで挫折を味わっているという点である。野村自身もテスト入団でのプロ入りであり、1年目のオフには一度クビを宣告されている。また、選手時代の晩年は球団との確執もあり、南海を追われる形で退団する経験も味わっている。そのような経験があったからこそ、挫折を味わった選手の気持ちをよく理解できたということは多分にあっただろう。

 さらに付け加えると、そういった選手を覚醒させる“言葉”を持っていたというのも野村の名将たる所以である。江夏に伝えた革命という一言はその典型例であり、また山崎に対しては『三振もいい当たりもアウトはアウト』と伝えることで思い切りの良さを取り戻させている。これほど数多くの語り継がれる言葉を残した野球人は他にはそういない。単なる名選手、名監督というだけではなく、挫折経験と多くの言葉が野村再生工場を支えていたと言えるだろう。

西尾典文(にしお・のりふみ)
野球ライター。愛知県出身。1979年生まれ。筑波大学大学院で野球の動作解析について研究。主に高校野球、大学野球、社会人野球を中心に年間300試合以上を現場で取材し、執筆活動を行う。ドラフト情報を研究する団体「プロアマ野球研究所(PABBlab)」主任研究員。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年2月13日 掲載