「ハワイアン・オープンの取材に行って、何でもいいから原稿書いて」。えらく漠然とした指令を「Number」編集長から受けたのは1983年の2月だった。

 当時私は駆け出しの26歳。何でもいいと言われて、つまらない原稿を書く気もない。私は3日目のラウンド後、「宝」を求めてコースを歩いた。ワイキキから車で約15分のワイアラエ・カントリークラブ。最終日に備え18番ホールのカップを切る作業に遭遇した。ハーフパンツ姿のロコ(地元)の若者が、「だいたいこの辺でいいか」みたいな南国ノリでグイッと足に体重をかけ、丸い穴を掘った。声をかけると、肩まで伸ばした黒髪の彼は言った。

「ボクのおじさんは、66年にこの大会で優勝した唯一のハワイアン、テッド・マカレナだ。ボクもおじさんに憧れてゴルファーを目指したあと、コースキーパーに転向したんだ」

 翌日、青木功がアメリカのジャック・レナーとトップタイで最終ホールまで進んだ。ひとつ前の組でプレーするレナーは、パー5の18番をバーディーで上がり、青木を1打リードした。一方の青木は『2打目を大きく左に曲げ、ラフに打ち込んでしまう』と、新聞などには書いてあるが、その場にいた私からすれば違う。『青木の打った2打目は、ドッグレッグの曲がり角、コースロープの脇にいた私に向かって飛んできて、すぐ目の前で止まった』

 あちゃちゃ、という顔で青木が歩いてきた。それほど深刻そうでもなかった。ライを確かめ、なんとかなんべえ、みたいな雰囲気で旗を狙う青木の背中は、すぐ手の届く場所にあった。

 同行していたカメラマンDさんは「先にグリーンに陣取って、もしもの優勝に備える」と言って1打目のあと早々に走って行った。

 青木がピッチングウェッジで打った3打目がハワイの空に舞い上がった。私は青木が見つめるのと同じ光景を、すぐ後ろで見ていた。

 寄せてバーディーならプレーオフ。1打リードのレナーも、優勝かプレーオフかと考えていただろう。

 ところが、打球がグリーン上で大きく弾んだ次の瞬間、グリーン周りの観衆が花火のように隆起し、どよめきが起こった。

 青木も半信半疑だ。やがて「直接入った」と知らされると、青木は狂喜乱舞の阿波踊りを始めた。両手を上げ、フェアウェイを縦横無尽に走り回った。私は持参のカメラを構え、踊る青木を夢中で追いかけた。

 グリーンの方から、フェアウェイを逆走してくる集団が見えた。慌てて青木を撮りに来たカメラマンたちだった。その中にDさんもいた。Dさんは私を見るなり真顔で叫んだ。

「大丈夫、ボールがカップに入る瞬間は撮った!」

 そんな写真が使えるのか? 内心可笑しかったが、プロの意地に肩をすくめた。

 私は、前日会ったロコのコースキーパーを思い出していた。正確にメジャーで測るわけでなく、「だいたいこの辺」で切ったカップが、歴史的な優勝を演出した。彼こそが隠れたヒーローだと思った。

 そして、78年の世界マッチプレー選手権優勝に続き、PGAツアーでついに初優勝を遂げた青木功はそれから押しも押されもせぬ「世界のAOKI」への階段を昇っていく。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

「週刊新潮」2020年7月2日号 掲載