プロ野球の東京ヤクルトスワローズは、昨年12月に北海道日本ハムファイターズから戦力外通告を受けていたサウスポーの宮台康平投手と正式に支配下登録を結んだと発表した。背番号は“68”に決まったが、実はこれによって日本プロ野球史上初の“珍事”が発生したことをご存じだろうか?

 現在、同球団には早稲田大出身でベテランの青木宣親、慶応義塾大出身で2020年のドラ1右腕・木澤尚文、明治大出身の右腕・星知弥と内野手の吉田大成、法政大出身の内野手・西浦直亨と外野手の中山翔太、立教大出身の捕手・松本直樹が所属している。

 そしてそこに東京大学出身の宮台が加わることになった。つまりこれで、今季シーズンの支配下登録選手に、東京六大学リーグ所属の全大学出身選手が出揃ったということを意味するのである。

 しかも、同リーグが舞台とする神宮球場を本拠地とする東京ヤクルトで、このメンツが揃ったことに奇妙な縁を感じてしまう。そもそもこれは宮台を含め、東大出の選手は過去に6人しかいなかった。そこで今回はこの宮台を含めた東大出身選手と、“東京六大学コンプリート”達成までの歴史をご紹介しようと思う。

初の東大出選手は65年入団

 東大出身初のプロ野球選手は、65年に大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団した新治伸治だ。大卒社員としてホエールズの親会社である大洋漁業(現・マルハニチロ)に入社したが、目玉選手が欲しい当時の三原脩監督の考えで、東京六大学で投手として活躍していた新治投手に白羽の矢が立ったのだ。オーナー命令でサラリーマンの身分のまま、子会社への出向扱いで大洋に入団させたのである。現在のドラフト制度が導入される直前のことであった。

 プロ入りの経緯こそ特殊だったが、六大学で通算8勝をマークした新治の実力は本物であった。入団初年度の65年から主に中継ぎとして88試合に登板し、68年までプレーしている。通算成績も9勝6敗、防御率3.29とまずまずの結果で、話題性だけの選手ではなかったワケだ。

 そんな新治のチームメイトだった六大学出身の選手にはまず、中心打者として活躍していた森徹(62〜65年)を筆頭に早大卒が3人いた。明大卒の選手も3人いて、その筆頭が通算193勝(171敗)を挙げた大エース・秋山登(56〜67年)である。法大卒はアンダースローの木原義隆(68〜69年)ら2人で立大卒も右腕の稲川誠(62〜68年)ら2人がいた。

 残るは慶大卒の選手だけなのだが、新治が現役だった4年の間には不在であった。実は新治が現役を引退した68年オフに読売ジャイアンツから捕手の大橋勲が交換トレードで入団している。

指名でプロ入り初の東大出身は…

 2人目に挙げる井手峻は、ドラフトで指名されてプロ入りした初の東大出身選手である。六大学リーグではエースとして活躍し、4勝21敗、防御率3.28という数字を残した。

 66年のドラフト会議で中日ドラゴンズから3位指名され、三菱商事の内定を辞退してのプロ入りだった。入団後はケガに苦しみ、最初の3年間でわずか1勝しか挙げられなかった。すると俊足と強肩を買われて70年から外野手へと転向し、主に守備固めや代走で起用されることに。73年シーズンでは日本プロ野球史上初で現在までも唯一の東大出身選手によるホームランを放っている。

 76年のオフに引退したが、東大出身選手としては歴代最多となる計359試合に出場し、打率1割8分8厘、1本塁打、2打点、4盗塁という生涯成績であった。

 その井手のチームメイトだった六大学出身の選手には早大卒が4人もいた。その筆頭が主砲として活躍した谷沢健一(70〜86年)である。これに続くのが明大卒の3選手だが、その中には68年のドラフト1位で入団し、エースとして君臨した“燃える男”星野仙一(69〜82年)もいる。慶大卒は代打の切り札として活躍した江藤省三(69〜76年)ら2人、立大卒も70年代半ばから中日不動の1番として活躍した谷木恭平(73〜80年)ら2人がいた。

 これで残るは法大卒だけとなったのだが、惜しいことに井手が中日に入団した66年オフに同大学OBで野手の島田幸雄(66年)が引退してしまい、新治同様にあと1大学で六大学コンプリートを逃すことに。

 3人目の東大卒は、先の井手選手からかなりの間が空くこととなる。91年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから8位指名を受けて入団した左腕・小林至投手である。実に25年ぶりの東大出身選手の誕生であった。

 六大学では通算0勝12敗ながら、入団テストと練習生を経てのプロ入りを果たした。だが、現役生活はわずか2年で幕を閉じ、その間、1軍登板を1度も果たすことができなかった。20年のシーズン終了時点で東大出身のプロ野球選手6人のうち、1軍経験がないのはこの小林だけである。そんな小林のチームメイトだった六大学出身選手といえば、筆頭格でこの人の名前が挙がる。早大卒で当時のエース・小宮山悟(90〜99年・04〜09年)だ。他には左腕の東瀬耕太郎(93〜96年)が明大卒、内野手の鈴木俊雄(90〜94年)が法大卒だったが、小林の在籍した2年間には慶大卒と立教卒はいなかった。

 4人目は1年生時から神宮のマウンドで登板を重ね、左腕投手としては東大野球部史上最多の8勝を挙げた遠藤良平だ。99年のドラフトで日本ハムファイターズ(現・北海道日本ハムファイターズ)から7位指名を受け、プロ入りを果たした。

 プロ2年目の01年10月1日の西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)戦でワンポイントリリーフでプロ初登板を果たすも、三塁内野安打を打たれ降板している。そしてこれが唯一の1軍登板となり、この年のオフに現役を引退してしまった。

 そんな遠藤のチームメイトだった六大学出身選手は、外野手の中村豊(96〜02年)ら2人の明大卒、捕手の荒井修光(96〜03年)が早大卒、内野手の田中聡(01〜02年)が法大卒。しかし、慶大卒と立大卒がいなかった。

難しい“六大学コンプリート”

 5人目は六大学で通算3勝を挙げた松家卓弘である。04年のドラフト9巡目指名で横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団し、プロ5年目の09年には待望の1軍初登板を果たしている。9試合を投げ、0勝1敗、防御率4.60という成績であった。シーズン後には北海道日本ハムに交換トレードで移籍したため、東大出身者初のトレード経験者となった。

 日ハムでも移籍1年目の10年には4月頭までに5試合に登板するも、その後は相次ぐケガに悩まされてしまい、12年オフに退団してしまっている。松家のチームメイトだった六大学出身選手といえば、横浜DeNA時代は右腕の木塚敦志(00〜10年)ら3人が明大卒、外野手の松本啓二朗(09〜17年)ら2人が早大卒、右腕の川村丈夫(97〜08年)ら2人が立大卒だったが、慶大卒と法大卒がいなかった。日ハム時代は“ハンカチ王子”斎藤佑樹(11年〜)ら3投手が早大卒、内野手の今浪隆博(07〜14年途中)が明大卒、外野手の稲葉篤紀(05〜14年)が法大卒、右腕の多田野数人(08〜14年)が立大卒だったが、慶大卒がおらず、惜しくも“六大学コンプリート不成立”であった。

 そして最後の宮台である。日ハム時代は3年間でわずか1試合の先発登板しかなく、4回2/3を投げ、被安打4、3奪三振、防御率3.86で勝ち負けつかずの成績であった。宮台の日ハム時代のチームメイトだった六大学出身選手といえば、斎藤佑樹(11年〜)に有原航平(15〜20年)ら3選手が早大卒、野手の横尾俊建(16年〜)ら2選手が慶大卒、左腕の上原健太(16年〜)ら2選手が明大卒であったが、法大卒と立大卒がいなかった。

 六大学出身の選手がひとつのチームに集まるという状態が1シーズンでも長く続くために、東京ヤクルトでの宮台投手の“奮投”にぜひとも期待したいところだ。

上杉純也

週刊新潮WEB取材班編集

2021年1月11日 掲載