熱戦が続く今年の日本シリーズ。過去には日本一を決める栄光の舞台を花道に引退した名選手・スター選手もいる。今回は80年代以降に絞って、選手として幸せな最後を飾った名選手をご紹介してみたい。

 まずは日本一を決めて現役引退した選手から。投手はたった1人であった。西武の前身・西鉄時代からライオンズ一筋でチームの屋台骨を背負った東尾修である。

 1987年には自身2度目のパ・リーグMVPに選出され、チームの2年連続日本一にも貢献。ところが、この年のオフに麻雀賭博容疑で書類送検の憂き目にあってしまう。減俸に加え、12月21日から6カ月の謹慎処分が科された影響もあり、翌88年シーズンは6勝9敗と7年ぶりに二ケタ勝利に届かなかった。それでも経験と実績を買われ、中日ドラゴンズとの日本シリーズ出場メンバーに選出された。その初戦、4-1とリードした8回裏、無死一、二塁のピンチの場面でマウンドへ送り出されると、森祇晶監督から「この1人は抑えてくれ」と言われカチンときたという。それでも気持ちを切り替え、初球で相手打者を三ゴロ併殺打に仕留める。次打者の立浪和義も三球三振とわずか4球でピンチを切り抜けた。続く9回裏も続投し見事セーブを挙げている。

 東尾は3勝1敗と王手をかけた第5戦にも登板。4-4の同点6回表から3回1/3を投げ、被安打3、奪三振1、失点1の好投をみせ、チームの延長11回サヨナラ勝ちを呼び込んだ。見事3年連続日本一に輝いたが、実は初戦の夜に監督との意識のギャップを強く感じ、現役引退を決意してマウンドに立ったという。

「日本一」で引退した2人

 野手なら北海道日本ハムファイターズの新監督“BIG BOSS”こと新庄剛志(当時の登録名はSHINJO、49)がまず思い浮かぶ。阪神タイガースで活躍し、メジャーを経て04年に同球団に加入すると「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」と宣言。試合前には被り物のパフォーマンスなどを決行し、プロ野球ファンを大いに盛り上げた。

 ところが06年開幕直後、そのシーズン限りでの現役引退を突然表明。この年の日ハムは森本稀哲、田中賢介、ダルビッシュ有(サンディエゴ・パドレス)ら若手が成長し、勝利を積み重ねていった。勢いに乗ったチームは25年ぶりにリーグ優勝を達成し、新庄もシリーズ初出場を果たしたのである。

 日本一をかけた中日との戦いでは、全5試合に6番・センターで先発出場し、17打数6安打、打率3割5分3厘という活躍をみせ、チームの44年ぶり2度目の日本一に貢献。第5戦の8回裏、涙を流しながら迎えた現役最後の打席では全3球ストレート勝負で新庄らしい豪快な空振り三振に倒れている。最終的にチームの入団会見で掲げた2つの目標をともに達成してユニフォームを脱ぐことになり、まさに最高の形で現役生活に別れを告げたのだった。

 打者からはもう1人。読売ジャイアンツの中畑清の名が挙がる。89年のシーズン序盤にケガで長期戦線離脱を余儀なくされると、その間に若手が台頭し定位置を奪われてしまった。復帰してもベンチを温める日々が続き、シーズン終盤に引退を表明。それでもチームはリーグ優勝を果たし、近鉄バファローズとの日本一決戦に挑むことに。

 シリーズでチームはいきなり3連敗を喫したが、そこから粘りを発揮し、3連勝でタイに持ち込んだ。迎えた藤井寺球場での第7戦。中畑は6-2とリードした6回表に代打で登場すると、吉井理人からダメ押しのソロ本塁打を放つ。結局、8-5で勝利したチームは大逆転で日本一の座を掴み取ったのであった。

 この現役最後の本塁打の際、中畑はベンチには笑顔で戻ったものの、ベンチ裏に駆け込むと男泣きに泣いたという。有終の美を飾った中畑のあの“万感の一発”がいまだに忘れられないという読売ファンは多い。

“男気”を見せたあの選手

 次は惜しくも日本一を逃したものの、シリーズ出場を花道に引退した選手たちだ。まずは投手から。真っ先に思い浮かぶのは読売の江川卓である。87年シーズン、32歳の江川は26試合に登板し、13勝5敗。防御率も3.51の好成績を挙げた。19歳の桑田真澄と先発ローテーションの中心を担い、王貞治監督4年目にしてのリーグ初優勝に大きく貢献したのである。

 シリーズでは直近5年間で3度の日本一と黄金時代を迎えつつあった西武と対戦。後楽園球場で行われた第3戦に先発する。8回を投げ、被安打4の2失点と好投しながらも、2本のソロアーチを献上。頼みの味方打線も振るわず、1-2で敗戦投手となった。結局、このシリーズでチームは2勝4敗。日本一に輝くことはなかった。

 そしてシリーズ終了後に突然の引退会見を開いた。全盛期を過ぎたとはいえ、この年7完投を記録し、8年連続二ケタ勝利を継続中だっただけに誰もが予期せぬ引退劇だった。きっかけはこのシーズン終盤の9月20日の広島東洋カープ戦(広島市民球場)。法政大学の後輩に当たる相手4番・小早川毅彦に対して強気の内角直球勝負にこだわり、逆転サヨナラ2ランを浴びたことだった。この瞬間、自分の直球の力が落ちたことを思い知らされ、自身の野球人生の終わりを悟ったという。数年前から右肩痛に悩んでいたことも一因となり、球団からの強い慰留を押し切って現役を引退した。

 現役最終年に二ケタ勝利を挙げ、日本シリーズ登板で現役を引退した投手といえば、広島の黒田博樹もそうだ。メジャーチームからの巨額のオファーを蹴り、14年オフに古巣に復帰。すると15・16年と2年連続二ケタ勝利をマーク。16年にはチームの精神的支柱としてこの年、チームを25年ぶりのリーグ優勝に導く原動力となった。

 引退発表はあまりに突然だった。シリーズ開幕前の10月18日。開幕前から右肩、右足首に痛みを抱えていた黒田は「リーグ優勝が決断の一つの大きな要因だった」と突然の引退表明。こうして野球人生の集大成が、北海道日本ハムとの日本一をかけた大舞台となったのである。

 シリーズは広島の2連勝で幕を開けた。一気に王手を狙い、相手のホーム・札幌ドームに舞台を移しての第3戦で黒田はシリーズ初先発を果たした。初回に1点を失うものの、その後は粘って5回を被安打4に抑える好投をみせる。

 しかし2-1とリードして迎えた6回裏、黒田の現役最後のときは突然訪れた。1死から対峙したのは“二刀流”大谷翔平。黒田はこのスター相手に渾身の3球を投げ込み打ち取ったのだが、顔を歪め自らマウンドを降りてしまったのである。なんとかマウンドに戻るも、両足をつっていたため、再び投球をすることはできず、無念の降板。5回2/3を投げ、85球、被安打4、奪三振1、失点1。シリーズが第7戦までもつれ込めば黒田の2度目の登板が予想されたが、この試合から広島は悪夢の4連敗。これが黒田の現役最後の試合となってしまったのであった。広島はチームの大黒柱・黒田の花道を日本一で飾ることは惜しくも叶わず。それでも札幌ドームで投げた渾身の85球はまさに黒田の“男気”そのものだったといえよう。

シリーズ歴代最年長の本塁打記録

 もうひとりは、ヤクルトスワローズ〜読売〜阪神と渡り歩いた広澤克実。00年の阪神移籍以降は主に代打中心の起用だったが、03年の夏場にチームが不振に陥ると、先発出場の機会が増加。打率3割6厘、4本塁打、15打点の活躍をみせた。同時にチームが85年以来のリーグ優勝を果たしたことでこの年限りでの現役引退を決意。シリーズでは福岡ダイエー(現・福岡ソフトバンク)の前に3勝4敗で敗退し、惜しくもチームは日本一には届かなかった。このとき広澤は2つの記録を作っている。1つは5打席連続三振のシリーズタイ記録。そしてもう1つが第7戦9回表2死の場面でルーキー左腕の和田毅から左翼へ放った代打本塁打だ。この一打はシリーズ歴代最年長(当時、41歳6カ月)の本塁打記録であり、21年現在、阪神の選手がシリーズで打った最後のホームランでもあるのだ。

 最後は読売の名捕手・阿部慎之助だ。15年以降、一塁にコンバートされていたが、19年シーズンは監督に復帰した原辰徳と協議し、再び捕手に挑戦する。だがキャンプ中に度重なるケガに悩まされ、代打の切り札として開幕一軍入り。以後も代打や一塁でのスタメン起用となったことで、この年限りでの現役引退となった。

 その有終の美をリーグ優勝という形で飾ったが、シリーズでは福岡ソフトバンクの前になすすべなく4連敗を喫し、終戦。ただ全4試合に出場し(第1〜3戦は5番・指名打者として先発)、初戦の第1打席で相手エースの千賀滉大から令和のシリーズ初本塁打・初得点となるソロホームランを放ったのが最後の輝きとなった。

 以上の7人を紹介したが、そのほかの主力選手では柴田勲(読売・81年)と初芝清(千葉ロッテ・05年)が日本一に輝き引退。優勝が叶わなかった選手では山本浩二(広島東洋・86年)がいる。余談ながら80年代以前にさかのぼれば69年の金田正一投手(読売)が日本一を花道に引退した。

上杉純也

デイリー新潮編集部