「不屈の闘魂」アントニオ猪木(79)の人生は、リング上での数多のライバルとの死闘から、闘病中の難病も含めてリング外でも困難な出来事の連続だった。もともとのファンはそれを乗り越える姿に幾度も魅せられ、それがまた新たな猪木信者を作り出していくのだ。

『アントニオ猪木―闘魂60余年の軌跡―』(新潮新書)を著したプロレス・格闘技ライターの瑞佐富郎氏による新書未収録エピソードの第2回。

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 1994年1月、初代タイガーマスク(佐山聡)が、あるプロレス関係のパーティーに出席した。久々だからか、佐山の周りにはさっぱり人が集まらない。1983年、師匠だった猪木率いる新日本プロレスを退団、その後プロレスから離れて10年余りが過ぎていた。その間、他の格闘技の優位性を説いたこともあった。そのせいもあったかもしれない。

 すると突然、後頭部をつかまれ、軽い頭突きを食らった。振り向くと目の前に、猪木が立っている――。「佐山、久しぶりだなぁ」

 そう言って猪木はまた自分の額を佐山の額にこすり付けた。

「元気だったかよ、えぇ? この野郎〜(笑)」

 その2カ月後。佐山はタイガーマスクとしての復帰も視野に入れた会見を行い(1994年3月9日)、こう語った。「猪木さんへの恩返しのつもりで」

 猪木の「懐の深さ」を物語る逸話は数多い。

 愛弟子・小川直也のプロ・デビュー前のハワイ合宿では、打ち上げの後、観光客であふれるメイン・ストリートを歩いて帰った(1997年4月4日)。もちろん、瞬く間に人々に囲まれたが、猪木は嫌な顔一つせず、「いやあ、どうもどうも。行きますか! 1、2、3、ダー!」を連発。同行記者によれば、ゆうに30回以上もやっていたという。

 ついにはオウムを猪木の頭に乗せ、ギャラリーとの記念撮影でお金をとろうとする現地業者まで出現。ブレイクダンスをしていた若い黒人に自ら近づき、アキレス腱固めを披露するサービス(?)もあったとか。

 猪木は、受け入れるのだ。

 若い頃は「死にたいほど悩んだ」という長いアゴについても、医者に「人気者にはもってこいだ。一目見たら忘れない」と褒められて考えが一変したのは有名な話だ。プロになってからも、「アゴさえ引けば、大抵の首絞めはかけられません」と笑っていた。不倫騒動で坊主頭になった際も、「ブリッジなんて、この方がやりやすいんです」(1986年)――。

 ユーモアを交えた発想の転換ともとれるだろう。だが、その根幹には、全てを受容する広い度量があるのではなかったか。それはモハメッド・アリ戦、イラクでの人質救出など、一見、不可能と思われることを実現できたことと無関係ではないはずだ。

 執筆にあたっては数多くの過去の記事、インタビューを振り返ったが、節目節目で度量の大きさを感じさせるエピソード、発言を猪木は残している。1987年、倍賞美津子との離婚発覚の際のことだった。プロレス会場に詰めかけた芸能マスコミが帰ると、猪木はその場に残ったプロレス専門マスコミにこう言って笑ったという。

「いつもは敵だと思っていた皆さんが、急に味方に見えてきましたよ」

 カリスマ・プロレスラー、闘うヒーロー、正真正銘の大スター――猪木を彩って来た数々の呼称とはまた違った、人間・猪木寛至の魅力が感じられた瞬間だった。

デイリー新潮編集部