小5の時から東京の学校に通い始めた
10月25日、サムスンを世界の一流企業に成長させた李健煕(イ・ゴンヒ)サムスン電子会長が死去した。2014年5月、彼は心筋梗塞で入院し、6年以上も闘病生活を送っていた。韓国メディアは連日関連報道を行い、彼の企業経営の手腕を称えているが、「日本で学び育った」ことについては全く触れることがない。

サムスン電子は2010年にスマートフォンブランド「ギャラクシー」を発売し、2012年にはアップル社の「iPhone」を抜き、世界のスマートフォンのシェア1位となった。
サムスン電子は現在、アップル、Xiaomiと共にスマートフォンBIG3と呼ばれており、その売上高は今年度、韓国のGDPの20%近くを占めることが明らかになっている。
世界的なブランディング専門会社「インターブランド」が発表した2020年の「ベスト・グローバル・ブランド」において、サムスン電子のブランド価値は約623億ドル(約6兆5330億円)となり、アップル、アマゾン、マイクロソフト、グーグルに次いで5位となった。
そんなIT帝国を率いてきた李健煕会長を語るとき、日本を抜きにはできない。
サムスングループの創業者である父・故 李秉喆(イ・ビョル)は、1929年から31年まで日本に留学し早稲田大学政治経済学部で学んだ。
経営者となった1950年代、砂糖と小麦粉など食料品と毛織物製造事業への進出を計画。シャープ、新日本製鐵、伊藤忠商事との取り引きを通じて日本の技術とノウハウを積極的に導入した。
李秉喆は息子の健煕に「日本で先進の学問を学んでこい」と指示し、1953年、彼は小5の時から東京の学校に通い始めた。
当時の日本はテレビが登場し、洗濯機や冷蔵庫などの家電が家庭に普及し始めた時期であり、韓国との歴然たる格差に彼は衝撃を禁じ得なかった。

日本で学んだ「量より品質」
韓国に帰国した李健煕は父親の勧めで早稲田大学商学部に留学したものの、勉学に興味はなく、落第をやっと逃れるほどの成績だった。
大学時代の彼は、スポーツ選手や前科20犯の詐欺師、反社会勢力の日本人らと交流を重ねたりもしたのだが……。
1979年にはサムスン副会長に昇進して後継者の道を歩むようになり、1998年4月からはサムスン電子会長に就任。
「妻と子以外はすべて変えよう」
李健熙会長のこの発言は、韓国では名言として知られている。
1993年6月7日、彼はドイツ・フランクフルトのキャンプスキーホテルにて、約200人のサムスン首脳部を招集して会議を開いた。その時の李健熙会長の表情は非常に硬く、その声には怒りがこみ上げていた
1992年、サムスンは世界で初めて64MDRAM半導体の開発に成功した。サムスンがメモリー強国の日本を初めて追い越し、世界1位の座に昇りつめた栄光の瞬間だった。
しかし、落とし穴があった。内部告発により洗濯機に関する不正が暴露されたのだ。
サムスンは生産量拡大に余念がなく、自社のエンジニアが不良部品だという事実を知っているにも関わらず、不良部分だけを刃物で適当に削り取って洗濯機を組み立てていた。
その現場を撮影したビデオが出回り、李健熙会長は首脳部に対して激怒し、こう宣言したわけだ。
「洗濯機も同じことだが、ビデオデッキは不良が出れば、100人中50人は二度と購入しない。量ではなく質だ。まだみんな量を重視している」
「結局、変えるべきことは徹底的に変えなければならない。極端な話だが、妻と子以外はすべて変えよう」

日本人顧問に教えを請い、道を拓く
実はこの会議の3日前の6月4日、当時サムスン電子デザイン顧問を務めていた福田民郎氏(現在・京都工芸繊維大学名誉教授)らを呼び出して対策を議論していた。
福田氏は李健熙会長にサムスン電子社製品の問題点を網羅した「福田リポート」を提示する。
福田氏はサムスンが追求すべきロールモデルを提案。電化製品はソニーと松下、重工業は三菱、繊維は東レなど、主に日本の会社を「ベンチマーク」し、いつかはこれらの会社を凌駕すると李健熙会長は心に誓う。
サムスンの「品質優先」政策はこの時から本格化する。
1995年3月にはサムスンの携帯電話ブランド「Anycall」へのクレームが相次ぐと、「報酬をもらって不良品を作るなんて、顧客が怖くないのか」と激怒。
携帯電話工場のグラウンドに約2000人の社員を集め、「品質は自分の人格でありプライド」と書かれたプラカードを設置したまま、15万台の携帯電話を積み上げて燃やした。
そして社員に「500億ウォンの売上を灰にする結果となった」と檄を飛ばしている。今となってはパワハラ、モラハラを問われかねない行為ではあるのだが……。
もっとも、その強力なカンフル剤が奏功してか、Anycallは同年8月、携帯電話業界販売量1位のモトローラを抜き、51.5%のシェアで韓国国内トップとなっている。
2002年には4500万台の携帯電話端末を販売して3兆ウォンの収益を上げ、2004年にはサムスン電子はソニーと合弁でLCDパネル生産会社の「S-LCD」を設立。
2006年にはLCDテレビブランドの「ボルドー(Bordeaux)」を発足させ、グローバルテレビ市場でソニーを抑えて世界1位となった。

「真の克日」で一流企業経営者となった李健熙
サムスンの主力子会社で、蓄電池の製造を専門とするサムスンSDIは、1970年にNECと合弁で設立された会社だ。
他にも三洋と提携したサムスン三洋をはじめ、自動車事業で日産と、カメラ事業でペンタックスと合弁会社を設立しており、サムスンは日本企業と切っても切り離せない関係を結ぶ。
2010年4月、経団連会長に内定した米倉弘昌住友化学会長ら経済界トップとの会合で李健煕会長は「サムスンはここ数年、良くなってはいるが、まだ日本企業からもっと学ばなければならないことがある。 韓国と日本企業は互いに協力する分野が多い」と語っている。
彼の態度と経営能力は日本人の心を動かした。
2010年9月、早稲田大学は学校に輝きを与えた人物として李会長に名誉博士号を授与している。
2015年1月、日本経済新聞による日中韓100社の経営者を対象にしたアンケートで、李健煕会長は「日本の企業経営者が最も尊敬する経営者」に選ばれた。
日本への感謝の気持ち、日本に学ぼうという精神。それらは真の克日とは何かを問わず語りに語っていた。
「なぜ未だに日本に依存するのか、早く国産化できないのか」と韓国の政治家
残念ながら李健煕会長が死去した現在、韓国では「口先だけ克日と叫ぶ政治家」が幅を利かせている。
文在寅(ムン・ジェイン)大統領は昨年8月、日本政府が韓国に対するホワイト国リスト排除措置の実施後、「私たちは再び日本に負けはしない」と宣言した。
しかしながら、韓国政府がサムスンのためにできることはなかった。
李健煕会長の息子、サムスン電子の李在鎔(イ・ジェヨン)副会長は当時、半導体・ディスプレイ生産に必要な素材需給に支障を来たさないよう密かに日本を訪れて企業トップや政治家を説得している。
サムスンをはじめとする企業関係者らが円滑な素材供給を求めるために日本を訪れていた頃、韓国の政治家らは「なぜ未だに日本に依存するのか、早く国産化できないのか」と催促した。
政治家が「克日」のためにやったことといえば反日感情の扇動と不買運動だけなのに、日本に真に学び克服しようとする人々に訓戒をするとはいったいどういうことなのだろう。
李健煕会長は1995年の北京出張当時、韓国メディアとの懇談会で次のように話した。
「我が国の政治は4流、官僚と行政組織は3流、企業は2流だ」
幸いにも企業は1流となったが、未だに政治が4流なのは確かなようだ。
田裕哲(チョン・ユチョル)
日韓関係、韓国政治担当ライター
週刊新潮WEB取材班編集
2020年10月29日 掲載