心配事の97%は起こらない。そんな研究結果が、本書の冒頭で紹介されている。言われてみれば、くよくよと悩んだことが杞憂に終わることが多いと、思い当たる人もいるのではないだろうか。ではなぜ人間は、確率からするとムダとも言えるほどの悩みを持つのか。そのメカニズムと、我々が迷いから抜け出す方法を「自己」の観点から解き明かしているのが、この『無(最高の状態)』(鈴木祐/クロスメディア・パブリッシング)だ。

 著者は、『最高の体調』『科学的な適職』などのベストセラーを持つ、サイエンスライターの鈴木祐氏。10万本を超える科学論文を読み、600人を超える学者や専門医へインタビューした知見に基づき、ヘルスケアなどをテーマに執筆を行っている人物だ。本書はまず、人間特有の苦しみの正体を解き明かした上で、その理由である「自己」や、人間の脳が作り出す「物語」にスポットをあてる。そして、そこから解き放たれた「無我」の状態に至るための具体的なメソッドを紹介している。

 著者が語る人間の悩みの主な原因とは、人類が、動物とは違って未来と過去の概念を持つことや、過去の経験から脳内で作られる「物語」が、思考を悪い方向へ導くこと。そのため人は、実際に起きた苦痛に対する感覚である「一の矢」に加えて、「なぜ自分だけがこんな目に遭うのだ」「この先どうすればいいのか」というような、「二の矢」を放って悩みに陥ってしまうという。

 興味深いのが、自己に対する考察だ。自分が自分であるという自己の感覚は、人間の苦しみに大きく関わっているという。たとえば「上司に怒られた」という事実から、自己が起点となって苦悩が広がっていく。「私が何かミスをしたのだろうか?」「私は1カ月前も似たようなことで怒られた」というように、過去や未来に対する苦悩が、「二の矢」として頭を射抜いていく。しかし、そんな苦しみを生み出す自己は消すことができると著者は言う。なぜなら自己は、確立したひとつのものではなく、「人生の記憶」や「性格の要約」や「感情の把握」といった、人間が生き残るために身につけたいくつかの機能の集合体であるからだ。そのため、自己は感情や思考と同様に、トレーニングでコントロールできると著者は説明している。

 自己の問題を克服するために紹介されている方法は、自分を苦しませる脳内のストーリーを知って対処することや、「自己」や「物語」が発動しにくくすることなど。その具体的な方法は、呼吸法や、紙とペンがあればできるワークなど、ごく簡単なことが多いという。

 たとえば、脳内に浮かぶ物語を見つめる「観察」の感覚により、自己の発動をおさえて、メンタルを改善する効果が見込めるという。掃除などの作業中の感覚に意識を集中させる「作務(さむ)」は禅の修行のひとつだが、本書では日常でできる観察の方法として紹介されている。また、南オーストラリア州政府の教育省が推奨するプログラムとして紹介されているのが、心拍数トラッキングだ。これは、手首や心臓などに手を当てずに自分の心拍数を推測して、体の感覚を察知する力を測る方法のこと。不安や抑うつに苦しみやすい人ほどこの感覚が低いというデータがあり、改善することでストレス軽減につながるのだという。

 本書で引用されるのは、世界中の論文や少数民族の心理、そしてヒンドゥー教や禅の教えまでさまざまだ。著者はこれらに基づき自ら組み立てた理論を、わかりやすく、重要な論点は繰り返すなどして、読者の頭を整理しながら伝えてくれる。忙しいビジネスマンには到底、読破することができない数の論文から導かれたメソッドは、知的好奇心をもくすぐる。膨大な科学的エビデンスを、手軽に読める1冊の書籍として整え、私たちの手元に届ける著者の力量に驚く。

 すべてのメソッドは実行できなくても、毎日なんとなくしんどい、ストレスを感じるという人にとっては、自分の苦しみの正体や、「悩みを生む自己は消すことができる」と知るだけでも大きな一歩だろう。著者も書籍内で触れているが、紹介されているメソッドから、まずは無理なくできることをひとつかふたつ試してみるだけでも、気分がぐっと楽になるかもしれない。瞑想や呼吸法に懐疑的な人は、論理的に腹に落ちた方法だけを試してみるのもいいだろう。自分の苦しみへの理解が深まり、ふっと心が軽くなる1冊だ。

文=川辺美希