100歳人生時代、働く高齢者は増えている。一方で、シニアの労働環境の整備は置き去りにされている。心身が衰える60歳以上は、労働災害件数は現役世代よりも多く、死亡災害も最多。だが、統計は氷山の一角に過ぎない。事業所の労災隠しや、働き口を確保したいがために、労働災害保険の給付を得ていないシニアも少なくないのだ。



 シニアであれ、現役世代であれ、業務上の災害(事故)については、過失の有無にかかわらず、労働者に一定の補償が労働基準法で義務付けられている。これを保険制度化したのが、労災保険だ。労災保険は一人でも雇用者がいる事業所が入るべきもので、総人件費に基づき、1年分の保険料を政府に前払いする。業務上で事故が発生したら保険を労働者に給付。個人事業主とみなされる委託契約などの人を除き、正規職員か非正規職員かを問わず、労災保険の適用がある。

 だが実際には、事業所側が届け出をしない、労働者側が労災の申請をためらうといったケースがかなりあるとみられている。まずは、シニアが悪質な労災隠しに巻き込まれたケースを紹介しよう。

 大分県の佐伯労働基準監督署が昨年、労働安全衛生法の違反容疑で事業所と代表者を地方検察庁に書類送検したのは、こんな事案だ。金属製配管の空気漏れ試験などの作業中に配管が動き、60代の男性労働者の右膝に激突した。さらに配管が当たって別の配管が動き、もう一人の60代の男性労働者の左膝に激突した。二人とも休業4日以上の負傷となった。しかし、事業所側は労働者死傷病報告を提出していなかった。

 もう一つの労災隠しの事例は、石川県の穴水労働基準監督署が昨年、労働安全衛生法の違反容疑で事業所と代表者を地検に書類送検した。建築物解体現場で60代の男性労働者が2階から1階に転落し、左大腿骨骨折など休業4日以上の負傷をした。しかし、事業所側は労働者死傷病報告を提出していなかった。

 全国労働安全衛生センター連絡会議の古谷杉郎事務局長は、労災保険を巡る問題点について「労働者側のみならず、特に会社側、大企業より中小企業に無理解が多い」と指摘。労災保険を申請するとその後の保険料が上がるといった誤解のほか、「企業イメージ」が悪くなると捉えたり、業者間の関係に影響するのを恐れたりしているという。

 例えば、建設現場では元請け業者が労災保険料を支払っているため、現場を任されている下請け業者に費用負担はない。しかし、下請けにとっては、現場で労災が発生し労災保険を申請すると、元請けに迷惑をかけてしまうと気遣うのではないかと話している。

 古谷さんは「労災保険を使って保険料が上がることはまずない」と話す。東京労働局の労災担当者も同様の見解を示す。

「比較的大きな事業所で、死亡事故などで多額の保険金を国が支払った場合に2年ぐらい後になって保険料が上がることはあるが、ほとんどの事業所で保険料は変わりません」

 こうした事業所の労災隠しに加えて、問題を深刻にしているのは、シニアの場合、「労災保険という制度はあっても使いにくくなっている」(労働者の労災支援をする総合サポートユニオンの池田一慶さん)という点だ。若い世代に比べて、シニアの労働者はいわゆる非正規が圧倒的に多く、立場が弱いからだ。中央労働災害防止協会の調査では、60歳から64歳の雇用形態の69%が「非正社員」。65歳以上は79%だ。総務省の18年の労働力調査でも「非正規の職員・従業員」は、65歳以上で76.3%と同様の結果が出ている。働き口を確保したいがために泣き寝入りしたり、労働者自ら申請を控えたりすることは想像に難くない。

 例えば、シニアではないが、大手自動車メーカーの工場で期間工として働いていた男性によると、現場には「無事故連続○日」と貼り出しがあり、数千日の数字が入っていたという。実際は現場でけがをする人が少なくなかったが、ほとんどの人が貼り紙を無言のプレッシャーと感じ、個人的に治療して済ませていた。手脚の切断や、死亡など隠し切れない事案でもない限り、労災の申請がなされることはないという。事業者側が大きな問題にしたくないと考えているのに加え、有期雇用契約の場合、労働者側は労災保険を申請すると、次の契約更新をしてもらえなくなると恐れているのだ。

 池田さんは指摘する。

「例えば、現業系の現場でけがをしても、労災を申請すると、事業所から契約の更新をしてもらえなくなる恐れがあります。若い人なら次の転職先を見つけられるかもしれませんが、高齢者は厳しいでしょう」

 シニアは次の契約更新を最優先に考えがちで、仕事中のけがや病気でも、労災保険を申請することはかなりの覚悟が必要になるのだ。実際、有期雇用契約の更新に際しては、事業者側が労災保険申請者を契約期間が満了した場合に更新しなくても直ちに法令違反になることはないと、東京労働局の労災担当者は言う。この点に関して、大阪過労死問題連絡会・事務局長の岩城穣弁護士は「労働者にとって更新されることに合理的な期待があり、更新拒絶には正当な理由があるべきではないのか」と指摘している。

 労災保険のもう一つの問題点は、委託契約の場合、個人事業主とみなされて適用の範囲外になること。事業所側もそこをおさえている。例えばこんなケースだ。

 九州地方の60代の女性は、シルバー人材センターを通じて派遣され、製造業で働いていた。事故は製品の梱包中に起こった。正社員がスイッチを入れた際、機械に手をはさまれ、指3本を損傷。皮膚移植などの緊急手術を受けた。業務中の事故で負ったけがなのに、労災保険が適用されないと言われ困っている。最初に、損害賠償を請求しないとの誓約書に親族と連名で署名させられ、提出させられていたという。

 この事例のようなシルバー人材センターからの派遣や、バイク便の従事者、荷物を自分の車で持ち込むタイプの長距離トラックの運転手などは業務委託契約が多い。問題なのは、時間給で支払いを受けていたり、指揮命令や労務管理を受けていたり、実態は契約書とかけ離れている場合。このようなケースでは、実際は労働者と使用者の関係にあるにもかかわらず、ひとたび事故が起きれば自己責任にされてしまうのだ。

 前出の古谷さんは「指揮命令の関係があるかどうかがポイントになる」と話す。東京労働局の労災担当者も「実態が労働契約なら労災になる」と話しており、いくつかの要件を総合的に判断するというが、働くシニアにとって、心理的な面も含めて労災を認めてもらうためのハードルが上がるのは必至だ。

 高齢者が働きやすい労働環境を整える必要があるという認識は、政府にも出始めている。厚労省は15年に過労死防止大綱を策定し、18年の改定で高齢者と障害者に対して特段の配慮が必要との考えを新たに盛り込んだ。大綱を議論してきた過労死等防止対策推進協議会の委員として、この配慮を盛り込むことに尽力した岩城弁護士は、配慮が示されて画期的と評価するものの、具体化が進んでいないともいう。

 脳や心臓疾患の労災認定では、発症前1カ月に100時間を超える時間外労働があると、業務と発症の関連性が強いと評価される。岩城弁護士は「高齢者に100時間をそのまま適用していいのか」と指摘。高齢者に労災を認める場合は時間外労働を60時間にしてもいいのではないかという議論もあるそうだ。

 働き方改革がさかんに叫ばれているが、シニアに配慮した労働環境整備はまだまだこれから。100歳人生時代、対策は待ったなしだ。(本誌・浅井秀樹)

※週刊朝日  2019年5月24日号より抜粋