日本航空の破綻から10年。今度はANAが、コロナ禍で巨額赤字に陥る見通しとなった。ANA自身の行きすぎた拡大路線と歪んだ航空行政が危機を増幅させている。AERA 2020年11月2日号で掲載された記事を紹介。



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 ANAホールディングスが2021年3月期決算で5千億円超の最終赤字を計上する見通しになった。コロナ禍で国際線の9割が運休するという未曽有の逆風が招いた危機だが、一方で同社がここ10年、急拡大を目指すあまり自ら「危険空域」へと操縦桿を切り続けていたことも否定できない。

■追い続けた「日航超え」

 ANAの前身は、終戦から7年後に2機のヘリコプターで創業した日本ヘリコプター輸送。今もANA(全日本空輸)の便名に使われる「NH」はその名残だ。やがて旅客機の運航に進出したが、1986年までは一部のチャーター便を除き国内線専門で、より高額の運賃が見込める国際線は長年、日本航空の独壇場だった。

「国際線参入が認められるまで、一体何回、運輸省(現国土交通省)の航空局に国際線参入のお願いにいったことか。幹部とアポを取っていたのに1時間半も待たされ、部屋から出てきたのは日航の社員。なのに我々のお願いにはけんもほろろで、ほんの10分で追い出された。あの頃の悔しさは絶対に忘れない」

 筆者が航空業界を担当していた2010年代前半、ANA幹部はそう話して目をぎらりと光らせた。国際線への渇望と日航への激しい対抗心は、ANAという企業のアイデンティティーと言ってもいいほどだった。

 86年に初めての国際線定期便が認められてからも、ANAはあくまでも「2番手」の存在であり続けた。

 当時、国際線が発着する成田空港は滑走路が少なく、運用時間も限られていたため世界有数の過密空港だった。新参者のANAは国交省から有利な時間帯の発着枠をなかなか与えられず、日航との差はいっこうに縮まらなかった。

 当時の国交省が日航重視を続けたのは、長年の実績に加え、日航と自民党政権の蜜月関係の影響も大きい。

 ドラマ「半沢直樹」では、与党の幹事長の地元に「伊勢志摩空港」が建設され、大規模なリストラ計画が進む中でも同空港への路線だけは撤廃を免れるというエピソードが描かれる。ここまで極端な例は希としても、十分な需要があるかどうか定かではない空港が各地に建設され、「政治の意向」を受けた日航が羽田や伊丹とそれらの空港を結ぶ国内線を運航する、という構図が数多く生み出されてきた。

 政治家は地元に路線を引っ張って有権者にアピールし、日航は収支が厳しい路線を引き受ける見返りに国際線のドル箱路線を運航する。そんな持ちつ持たれつの関係が続く航空業界で、ANAは「万年2位」に甘んじるしかないと思われていた。

■日航救済後は優遇に舵

 潮目を大きく変えたのは、10年に起きた日航の経営破綻だ。

 一時は日航をそのまま倒産させる案や、国際線を全てANAに引き継がせる案も取りざたされたが、結局は当時の民主党政権が主導して、政府系ファンドの企業再生支援機構が3500億円の公的資金を日航に注入。借金は大半が棒引きされ、法人税も大幅に減免されることになった。郵政民営化など「官から民へ」の流れが進んでいた中、政府による日航救済は明らかに時代錯誤と言えた。

 ただ結果的に、ANAと政府の関係は一変する。ANAの伊東信一郎社長(当時、現会長)は、多額の公的資金が注入されて財務状況が劇的に改善した日航との間で「公平な競争条件が確保されていない」と繰り返し主張。国交省もこの主張を全面的に認め、様々な面でANAを優遇するようになる。

 国交省は12年、日航が新路線を含む新規事業を行うことを制限。一方、都心から近く高い利用率が見こまれる羽田空港の国際線発着枠の配分では、13年にANA11枠対日航5枠、16年にもANA4対日航2と大幅な傾斜配分を行い、「ANA優遇」の姿勢を鮮明にした。

 その結果、14年5月にはついにANAが国際線の旅客輸送量で日航を逆転。国際線定期便への参入から28年目にして、悲願の「日航超え」を達成した。

 各国を代表する航空会社は「ナショナルフラッグ・キャリア」と呼ばれる。その象徴とされるのが、国旗を付けて飛ぶ政府専用機の機体整備などを手がけることだ。ANAは19年、日航に代わって初めて政府専用機の機体整備を受託し、名実ともに日本のナショナルフラッグ・キャリアとなった。

■拡大路線に懸念の声も

 ただ、この当時のANAの拡大路線には懸念の声もあった。「路線の急増で機材や人員を抱えれば、リーマン・ショックのような有事のときに負担がのしかかる」という指摘は今回、まさに現実になった。

 15年に傘下に収めたスカイマークも赤字幅を拡大させている。ANAは当時、投資ファンドのインテグラルとともに経営破綻したスカイマークに出資し、事実上のグループ企業にした。それまでスカイマークは日航との関係が深く、羽田空港でも日航と同じ第1ターミナルを使っていた。経営陣や社員の間でも「ANAの傘下に入るなどあり得ない」(当時の役員)といった反発の声が根強かった。

 買収話がささやかれ始めたころ、ANAの伊東社長(当時)は筆者にこう話していた。

「我々か日航か、スカイマークを取った方が日本の航空最大手になる。もし日航にスカイマークを取られたらもう逆転の目は無い。日航が(新規事業制限で)手を出せない今、取りにいかない手はないだろう」

 世界最大の旅客機エアバスA380の導入も、結果的には深刻な重荷になった。

 ANAは15年、超大型機A380を3機発注した。だが当時、A380は「大きすぎる」ことが災いし、すでに世界的に販売が低迷。背景にあったのは、ライバルであるボーイングの最新鋭機B787に代表される、中型機の燃費向上と航続距離の拡大だ。運航コストが安いだけでなく、大きな1機を飛ばすより、小さな機体を数多く飛ばした方が乗客の増減に柔軟に対応できるし、利用者が比較的少ない路線にも参入しやすい。

 ANAは、このB787を世界で最初に導入した航空会社だ。誰よりも最新鋭中型機の利点を認め、裏返せば大型機のリスクを知っていたはずのANAが一体なぜA380を3機も導入したのか。「ハワイ路線強化のため」が表向きの理由だが、そこには傘下に収めたスカイマークが大きく関与している。

 スカイマークは11年、日本の航空会社で初めてA380を6機発注した。だがその後の経営難から発注をキャンセルし、エアバスから巨額の違約金を求められていた。

 経営破綻したスカイマークにとってエアバスは、大口債権者の一つ。スカイマーク向けに製造中だった機体とANAが導入した機体は別物とされるが、スカイマークの経営再建を担ったANAと、債権者だったエアバスの間で何らかの交渉が行われ、ANAのA380導入につながったことは想像に難くない。

 いずれも急激な拡大路線のツケが、コロナ禍で噴出した形だ。

■「政権と蜜月」危機招く

 政権との蜜月関係を背景に膨張を続けた日航が破綻し、代わってナショナルフラッグ・キャリアへと躍進したANAが迎えた窮地。もちろん、ANAはなお高い自己資本比率を保っている上、すでに銀行団から1兆円超の資金調達のめどを付けるなど、破綻当時の日航とは状況が大きく異なる。だがそれでも、両社が苦境に陥る道筋は合わせ鏡のように符合する。

 13年の秋、ANAの経営陣は日航の破綻について筆者にこう語っていた。

「破綻は半分以上政府のせい。政府が航空行政に余計な手心を加えたりせず、自由な競争に任せていたらこんなことにはならなかったんだ」

 その言葉は今、ANAにもぴたりと当てはまる。政府が横紙破りで日航を救い、その埋め合わせとしてANAが有利になるよう競争環境をコントロールするというやり方が、コロナ禍の傷口を大きく広げている。(編集部・上栗崇)

※AERA 2020年11月2日号