7月17日に没後30年を迎える石原裕次郎さん(享年52)は1970年代から「太陽にほえろ!」などテレビに活躍の舞台を移したが、映画づくりの情熱を生涯持ち続けた。撮れなかった「最後の映画」のシナリオづくりにたずさわった脚本家の倉本聰さん(82)に思い出を聞いた。発売中の週刊朝日ムック「没後30年 永遠のスター 石原裕次郎」からその一部を紹介する。

――裕次郎にとっては映画を撮ることこそが夢。その夢を託されたのが、裕次郎が初めてテレビに出た63〜64年のトーク番組に構成作家の一人としてかかわっていた倉本聰だった。石原プロモーションがテレビにシフトしていた70年代、偶然、札幌で裕次郎と再会を果たす。

 裕ちゃんは自分の仕事の現状に、何となく不満を持っていたンだと思います。 僕が大河ドラマ「勝海舟」の執筆中にNHKともめて、北海道札幌で一人で生活を始めたのが74年。荒れた生活をしていました。当時住んでいたマンションの隣に、小樽に本店がある海陽亭というでっかい料亭があって、時々、食事をしに行っていた。裕ちゃんがものすごく親しい店でもあったんです。

 ある日、そこへ行ったら裕ちゃんが泊まってたんだな、多分。何となく飲もうという話になった。翌日の明け方までめちゃくちゃな飲み方をしたんです。裕ちゃんはとにかく飲んべえだからね。僕も底なしのほうで、二人で日本酒を一樽空けちゃった。それでも意識はハッキリしていました。

 そのとき、飲んだ勢いもあって「裕ちゃん、40過ぎていつまでもドンパチではないだろう」という話をしちゃったんです。「もう少しきちんとした映画なりテレビなりをやったらどうだ」って。彼はすごく真面目に人の話を聴いていました。徹底的に聞き役に回ってましたね。

 翌日コマサ(石原プロで専務だった小林正彦さん)から電話がかかってきてね。「うちのダンナに何を吹き込みやがったんだ!」って怒鳴られたんです。裕ちゃんの映画に対する考え方が突然変わっちゃって困ってるって。だから、「何を吹き込んだわけじゃないけど、いい年なんだからドンドンパチパチばかりじゃなくて、ちゃんとしたのをやったらどうだっていう話をしたんだ」って言ったら、「余計なことを言うな」ってけんかになっちゃった。僕とコマサとは仲が良くてバンバン言い合う仲だったんですけどね。コマサがとにかく何が何だかわからねぇって言うんですよ。これからつくろうという映画に対して、昨日まで言っていたことと全然違っちゃったって。

――76年、石原プロ制作のテレビドラマ「大都会 闘いの日々」の脚本を担当した倉本はその後、富良野に移り、84年に脚本家と俳優志望者のための富良野塾をスタート。翌年2月、小林専務から突然電話があり、その2日後、彼が雪深い富良野へやって来た。

 裕ちゃんが映画を撮るから「明日から体を空けろ」って言うんですよ。「何を言うんだ。仕事があるんだ」って言い返すと、「仕事を全部キャンセルして来い」と。「とにかく2、3日中に体を空けてくれ」って言われて、自分が裕ちゃんに「ドンパチではなくて……」と吹き込んだところもあるから、引きずられたんですね。翌週ハワイに拉致されました。吹雪の中から常夏の国へです(笑)。

 裕ちゃんは81年に解離性大動脈瘤で奇跡の生還を遂げて復活した後だから、ハワイへは静養に来ているのかなという思いがあったんです。空港に到着すると裕ちゃんが迎えに来てくれていました。滞在中はとにかくゆっくり映画の話がしたいって言うから、裕ちゃんの別荘で毎日毎晩ずっと映画の話をしました。さらに、裕ちゃんがシナリオを考えてくれと言うんです。

 実は(海陽亭で裕次郎と飲んだ翌日に)コマサから連絡があったときに、僕はすぐに裕ちゃんを主演にした「船、傾きたり」というシノプシス(映画のあらすじ)を1本つくっていました。まだ岡田真澄たちも存命でしたから、映画「狂った果実」の出演者たちの今がどうなっているのかを書いたんです。裕ちゃんはその内容に乗りました。ところが、コマサが「ダメだ、冗談じゃない」と言う。この議論がハワイの滞在中に蒸し返されました。

――文芸作品をつくりたい裕次郎と活劇をつくりたい小林専務。そのギャップを埋めようと倉本は悩み続け、ようやく台本を完成させた。

 今度は裕ちゃんが気に入りませんでした。「この箇所わからず」とか台本にいろいろ厳しい赤線を入れて突き返された。それでもう僕は「できないよ」と、最後はけんか別れのようになってしまった。

 当時、裕ちゃんが入院していた慶応病院の特別室の応接間で話したんですが、すでに相当悪くなっていたんでしょうね。病室を出てから渡(哲也)が追いかけてきて、「ちょっと飲みましょう」と言うんです。そのとき、実際は裕ちゃんは今、とても映画ができる状態ではないと明かされました。それでも裕ちゃんに生きがいを持たすべく映画をつくるという姿勢を示すために僕が頼まれちゃったらしいんです。「言わなくてすみませんでした」と渡に謝られて、「それならそれでいいよ」で終わりました。渡たちの気持ちにも搏たれましたしね。

 その後、裕ちゃんが退院してハワイに行ったんです。裕ちゃんが僕に失礼なことを言ったから会いたがっていると聞いたので、僕は妻を連れてカハラの新しい別荘を訪ねました。けんか別れみたいになっちゃっていましたから。ところが、裕ちゃんがパジャマ姿で出てきたのを見て、「あぁこれは相当悪いんだな」と思いました。女房とは初対面です。初めて会う女性にそんな格好は絶対しない人ですから。

 30分くらい話してすぐに引きあげました。作品の話は一切していません。それが最後でしたね。僕は別れに行ったようなものでしたし、向こうもそれはあったでしょうね。マコちゃん(妻のまき子さん)と二人で僕たちの車が見えなくなるまでずっと玄関に立っていました。バックミラーに映っていたあの姿は忘れられません。彼が亡くなる87年、最後に東京で入院する前のことでした。

 裕ちゃんを一個の人間として好きでした。なんて言うのかな。スターの孤独ってあると思うんです。スターはみなからちやほやされていますが、すごく孤独なものだという気がする。裕ちゃんもそうだった気がします。

 スターと役者は違います。スターは人に見られるもの、役者は人を見るものです。喫茶店に入ったときに、壁を向いて顔を見せないのがスター。壁を背にして客を観察するのが役者です。僕なんかは壁際に座ってそこら中を見回しているっていう仕事でしょ。そうしないと作家なんてできませんから。もちろんスターの中にもちゃんと観察しようとするスターはいますよ。でも、裕ちゃんは人に見られちゃうからね。裕ちゃんには最後に文芸作品を撮らせたかったなぁ。

※週刊朝日 2017年7月21日号