夏目雅子さんを懸命に看病した兄・小達一雄さんが、母・スエさんらと一緒に「夏目雅子ひまわり基金」を始めたのは1993年12月1日。現在でも、抗がん剤の副作用で髪の毛を一時的に失った人を対象に、毎年500〜700人にかつらの無料貸し出しをしている。そのスタートには、雅子さんの親友で女優の田中好子さんが大きな役割をはたした。



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 夏目雅子さんを懸命に看病した一雄さんは、雅子さんの死後、1993年12月に「夏目雅子ひまわり基金」を始めた。

 しかし、立ち上げ時は不安だらけだった。雅子さんが亡くなってから、すでに8年が経っている。はたして、テレビや新聞などのメディアが取り上げてくれるのか。思案する一雄さんにある一つのアイデアが浮かんだ。雅子さんとの縁で知り合い、91年に結婚した元キャンディーズで女優の田中好子さんに協力してもらうことだった。

「私が妻にお願いごとをしたのはあの時が始めて。当時は芸能人だけではなく、一般の人でも『ボランティア活動』なんて考えはなかった。好子に『雅子を甦らせたいんだ。福祉で雅子が甦るんだ』と話したんです。すると、『わかった。やります』と言ってくれました」

 日本でボランティア活動が広がったのは、95年1月の阪神・淡路大震災だった。多くの市民が無料で被災地支援活動に参加して、今では95年は「ボランティア元年」と呼ばれている。裏を返せば、それまでは「ボランティア」という概念が、ほとんどの日本人になかったということだ。

 そんな時代に、国民的アイドルだった好子さんが基金の広報役として無償協力したことの影響は大きかった。記者会見で好子さんがスピーチをすると、新聞やテレビがこぞって基金のことを取り上げた。事務所への電話は鳴り止まず、3つの回線はパンク。事務所周辺の数千世帯の通話に影響が出るほどだったという。

 好子さんにとって、雅子さんは頼りになる友人だった。一雄さんは言う。

「好子が80年にドラマ『虹子の冒険』で女優として再デビューするとき、不安を感じていたそうです。その時にアドバイスをしてくれたのが、ダブル主演で共演した雅子でした。キャンディーズでは周囲がお膳立てをしてくれて仕事をしていたのが、女優はすべて自分でやらないといけない。その時に、雅子が一通の手紙を送って『何を悩んでいるの。スーちゃんは一番なんだから頑張れ』と励ましたそうです。年齢も芸歴も好子の方が上なのに、雅子のことをとても慕っていました」

 励ましだけではなく、雅子さんは女優としての振る舞いのアドバイスもしていた。監督やプロデューサーの名前だけではなく、大道具、小道具、カメラマンなどのスタッフの名前も全員覚えて、みんなに優しく接すること。2011年に好子さんが亡くなった時には、一雄さんのもとに「好子さんは誰にでも気配りができる人でした」という声が届いたという。

 好子さんにも影響を与えた雅子さんには、優しさだけではなく、女優としての芯の強さもあった。

「雅子はお酒が好きで、あるバーで津川雅彦さんと演技論で議論になったそうです。津川さんが『お前に道ばたの路上のゴミ箱を漁ってメシを食べている人間の気持ちなんてわからない』と雅子に言ったら、雅子は突然、店からいなくなった。10分ほどしてから帰ってきたら『津川さんの言うとおり。ゴミ箱のご飯は新鮮なものを選べば何とか食べられたけど、人の目がつらかったわ』と言ったそうです。店の外でゴミ箱の食べ物を食べてきたんですね。津川さんも『とんでもない女だったよ』と話していました」

 基金の活動が広く知られるようになったころ、公共広告機構(現・ACジャパン)が制作した骨髄バンクへのドナー登録を呼びかけるCMに、雅子さんが採用された。往年の雅子さんの美しい映像とともに、「あなたのドナー登録があったなら、きっと僕らは、46歳の夏目雅子さんに会えたに違いない」というナレーションが感動を呼び、03年度の広告電通賞で最優秀賞を受賞した。一雄さんは言う。

「自分の妹をこう言うのも恥ずかしいですが、本当に天使のような女性でした」

 享年27歳。若すぎる旅立ちは、多くの関係者やファンに衝撃と悲しみを与えた。生きていれば12月17日で60歳。今年は、生前に交流のあった関係者へのインタビューをまとめた本の刊行やイベントも企画されている。

 雅子さんを子供のころから最も近くで見てきた一雄さんに、生きていればどんな女性だったかをたずねてみた。

「うーん、どうでしょうね……。森繁久弥さんや杉村春子さんなど、大御所の俳優にもとてもかわいがられていましたから、芸能の歴史で、何か新しいページを作っていたかもしれませんね。ただ、どんな形にしろ、女優はやっていたでしょう。女優は、彼女の天命でしたから」