既報のとおり、昭和を代表する作曲家の筒美京平が10月7日に亡くなった。享年80。病気療養中だったそうだが、70歳代になってからも精力的に曲の提供に挑み、生涯現役だった。作曲作品の総売り上げ枚数は、約7500万枚。歴代1位の輝かしい記録を残した。



 筒美京平の代表曲といえば、「ブルー・ライト・ヨコハマ」(いしだあゆみ/1968年)、「また逢う日まで」(尾崎紀世彦/71年)、「魅せられて」(ジュディ・オング/79年)などが挙げられるだろう。筒美はこれらの曲の多くについて、メロディー(旋律)だけではなくアレンジ(編曲)も手がけた。80年代以降、アレンジについては、他の人に譲るようになっていくが、曲の世界をトータルで作り上げていくのが筒美作品の大きな魅力だった。

 例えば、「また逢う日まで」は尾崎紀世彦の素晴らしい歌唱力によるサビが特徴的な曲だが、よく聴くとドゥーワップのようなコーラスが多く採り入れられていて、ブラック・ミュージック・テイストがアレンジのテーマになっていることに気づく。「魅せられて」のポイントは、イントロから飛び出す派手なストリングスやハープなどの華やかなオーケストレイションだろう。これが西アジアのオリエンタルなムードを感じさせる旋律との相性が抜群で、当時日本からはまだまだ訪問者が少なかったエーゲ海や地中海周辺の風景を、音で見事に描いてみせている。

 作曲家として頭角を現す前、筒美がレコード会社の日本グラモフォン(当時)で洋楽ディレクターだったことは有名だ。青山学院大学時代、軽音楽部でジャズに傾倒していたこともあり、筒美の感覚と耳は海外ポピュラー音楽に慣れてしまっていた。現在は歌謡曲のコンポーザーとして認識されている筒美だが、彼自身は当時としては筋金入りの洋楽リスナーだったのだ。日本の流行歌を作曲するにあたり、それまで親しんできたジャズなどの洋楽や、英米のヒット・ポップスをどう“翻訳”するのか。もしかすると、キャリア序盤から中盤あたりは、それが彼のミッションだったのかもしれない。その意味では、舶来文化を日本に伝播させる紹介者的な側面……いや、海外文化に対する評論家的な側面も持った作曲家だと言える。

 もちろん、日本の作曲家の多くが、おそらく今も、そうした意識を持っている。だが、まだ海外からの音楽情報も乏しかった昭和40年代〜50年代に、音楽的流行をキャッチし、それを日本人向けにデフォルメさせていく作業は、かなり骨が折れたはずだ。小さい頃にピアノを習っていたとはいえ、専門的な音楽教育を受けず、ある種独学で作曲法を身につけた筒美。しかし、独学だったからこそ、柔軟に洋楽の流行を自分の作曲やアレンジに組み込むことができたのではないだろうか。

 筒美の“海外翻訳家・評論家”的な側面が最もビビッドに刻まれたのが、中原理恵が歌った「東京ららばい」だろう。78年3月に発売され、シングル・チャート最高位9位。ショートカットをオールバックにして、大人っぽいファッションの中原理恵が歌った代表曲で、筒美が多くコンビを組んだ松本隆による東京の夜の哀感を描いた歌詞も秀逸だ。

 この曲で筒美がアレンジに採り入れたのは大きく分けて3種類。一つは、当時大流行していたディスコ・サウンドである。シンコペーションを伴ったダンサブルなビートに、流麗かつ情熱的なストリングスを掛け合わせた全体の色調は、当時ニューソウルとも呼ばれたブラック・ミュージックに材を取ったものと言える。二つ目は、スペイン・アンダルシア地方の音楽であるフラメンコの要素のギターやカスタネットを加えた。さらに、メキシコの伝統的な音楽であるマリアッチをお手本にしたようなトランペットなどのホーンも挿入。これらがハイブリッドにミックスされているのが「東京ららばい」のアレンジなのである。

 もともとブラック・ミュージック好きの筒美がディスコ・サウンドを参照したことはよくわかる。この時代の筒美は他にも多くのディスコ調の曲を書いていて、「シンデレラ・ハネムーン」(岩崎宏美/78年)、「リップスティック」(桜田淳子/78年)、タイトルもそのまま「ディスコ・レディー」(中原理恵/78年)など枚挙にいとまがない。特に同じ松本隆と組んだ「リップスティック」は「東京ららばい」とコインの裏表のような関係の歌詞になっていて興味深い。

 フラメンコやマリアッチをそこに掛け合わせるセンスが素晴らしい。急速に発展する東京の夜の孤独を描くにあたり、まず土台をアメリカで当時人気の大衆音楽で華やかなディスコにして、その上にスペインやメキシコの民族音楽の要素を重ねていく。結果、アメリカが移民によって成り立っていることを、それとなく伝えているように感じられる。また、そもそもディスコやブラック・ミュージックがアフリカからの黒人がもたらしたものだという事実も伝わってくる。もちろん、そうした歴史を筒美は先刻承知の上で、近代化する大都会・東京もまた、強者も弱者も含めて様々な境遇・立場の人が渦巻くようになったことを暗に伝えているのではないか。

 この曲自体のハイライトは、歌唱力のある中原がサビの最後に「ないものねだりの子守唄」という決め台詞を叫ぶところにあるだろう。その一節は、都会に生きる女性のやるせない孤独を伝え、また一方で強く生きていく決意のようなものも伝えている。華やかなディスコ・ミュージックの流行が象徴するように、ベトナム戦争で疲弊したアメリカが70年代後半以降、再び国家として息を吹き返していく。だが、そんなアメリカにも黒人、ヒスパニック系、アジア系など多様な人種が暮らし、様々な国やエリアの文化が自然とミックスされている……深読みしすぎかもしれないが、筆者はこの1曲からそんなことまで感じてしまう。

 もちろん、小学生だった当時、筆者はそこまでわかってはいなかった。「東京湾(ベイ)」「山手通り」「タワー」という都会の風景を切り取った歌詞が、ひたすら刺激的だった記憶しかない。だが、気がつけばこの曲を通じて、海外の多様な音楽文化を吸収していた。筒美京平とは、そういう作曲家・編曲家だったのである。

 90年代、洋楽への洒脱なアプローチで人気を博した渋谷系の小沢健二やピチカート・ファイヴといったアーティストと組んだことから、海外音楽の“翻訳”という役割も担った筒美の志が受け継がれていることを実感した。作曲家生活30周年を記念し、レコード会社18社が協力して1997年にリリースした2種類のボックスセット『HISTORY〜筒美京平 Ultimate Collection 1967〜1997』は今も筆者の宝物だ。改めて心からご冥福をお祈りしたい。(文/岡村詩野)

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