1月16日に解散した石原プロモーション。創設者で戦後の大スター・石原裕次郎は、病魔に襲われた晩年に盟友・倉本聰さんと映画のシナリオを作っていた。週刊朝日ムック「映画にかけた夢 石原プロモーション58年の軌跡 石原裕次郎・渡哲也」では、倉本さんのインタビューを中心に「裕次郎が撮りたかった映画」の特集記事を掲載した。そのダイジェストをお送りする。

***
 空前の「裕次郎ブーム」が続く中、石原裕次郎は「自分が撮りたい映画を撮る」という信念の元、1963(昭和38)年1月16日、石原プロモーションを設立した。裕次郎28歳の時である。その頃、裕次郎と同年同月生まれ、3日違いの誕生日の倉本聰も28歳になったばかり。プロデューサーを務めていたニッポン放送を退社して、裕次郎の育ての親でもある日活のプロデューサー・水の江滝子が設立したプロダクション「水ノ江企画」に専務として入り、裕次郎と交流を持ち、脚本家としての道を歩み始めた。

 独立してテレビの脚本家として脚光を浴びていた倉本は74年、NHK大河ドラマ「勝海舟」降板を機に、東京から札幌市に移り住んだ。倉本のマンションの隣に「海陽亭」の札幌支店があった。海陽亭といえば、小樽で勤務していた裕次郎の父・潔のなじみの料亭で、慎太郎・裕次郎兄弟も、幼い頃から家族ぐるみの付き合いをしていた。ある日、札幌の海陽亭で裕次郎とばったり会った倉本は、明け方まで日本酒を痛飲しながら、映画談議をした。

「日活映画の裕ちゃんに対する扱いっていうのは、映画界がそうだったんですが、専属のスターが演じるヒーローは、役の上では絶対死なないんです。しかもだれにも負けない、常にトップにいるんです。そのとき『高倉健さんがいる東映のことを考えてほしい』ってぼくは言ったんです。健さんのキャラクターには『頭が上がらない人』が必ずいる。例えば嵐寛寿郎の大親分が殺されて、その人のために立ち上がる。つまり健さんには上がいるんです。役作りの上で、尊敬する、リスペクトする人がいることで、その人のために一生をかけることが、ヒーローのキャラクターを光らせるんです。それが、裕ちゃんにはなかったんです。おふくろさんとかに対する愛情も日活で出演している映画にはほとんど出てこないけど、家庭的なものはやる気がないのか、と問い掛けたんです」

 裕次郎は「いや、そういうものもやる気があるんだ」と答えた。その頃、倉本は最愛の母を亡くし、さまざまな思いが去来していた。それが、田中絹代が萩原健一の母を演じたドラマ「前略おふくろ様」(NTV)へつながっていく。

「裕ちゃんも、日活のスターの典型として作り上げられた人間像に押し込められてきたから、不満があったんでしょう。彼のその感情を刺激しちゃったわけです。スターの仕事ばかりしてるけど、役者の仕事をしなくていいのか。高倉健さんを見なさい。スターだけど、ちゃんと役者の仕事をしてるじゃないか。あんたはどうなのか」

 酔いも手伝って、倉本は、裕次郎にそこまで言ってしまった。裕次郎も自分が撮りたい映画への夢を語った。完全無欠なヒーローではなく、人間的な弱さ、他人への思いやり、そして男の孤独を演じたい──。

 裕次郎も倉本も同世代として、昭和20年代から30年代にかけて公開されたハリウッド映画黄金時代の作品を愛していた。それは二人の「映画の理想」でもあった。

 76年1月、倉本の企画・脚本による、石原プロ初制作の連続刑事ドラマ「大都会―闘いの日々―」(NTV)がスタートした。しかし、石原プロのかじ取りをする小林正彦専務は「映画は娯楽だ」が身上で、それゆえ「大都会PARTII」になるとエンターテインメント志向が強くなり、倉本が理想とする「人間ドラマ」とは反対の方向に向かっていった。
 石原プロのドラマに参加しながら倉本は、裕次郎と語りあった夜のことが忘れられなかった。倉本は裕次郎への追悼文「夏に死す──追想・石原裕次郎」(「文藝春秋」87年9月号)でこう記している。

 《裕次郎に僕は衰えを見ていた。
 無論のことそれは自分自身の衰えを自覚したその上での感情だ。
 我々の世代、我々の青春が静かに音もなく崩れようとしていた。そうしてその中で僕は突然、一つの映画の構想を始めていた》

 それが「船、傾きたり」だった。兄・慎太郎の芥川賞受賞作の映画化「太陽の季節」(56年)の端役でスクリーンデビューをした「太陽族」の若者・裕次郎が、続いて主演デビューを果たした「狂った果実」(56年)の若者たちは、その後、どうなっているのか? それを44歳の裕次郎で描いてみたい。それが倉本のアイデアだった。

「『船、傾きたり』は、映画会社がつぶれる一日の物語です。これは裕ちゃんとマコちゃん(北原三枝=石原まき子)の最初の『狂った果実』から発想したんです。あれをそのまま使いたい。主人公の夏久が、映画会社の撮影所長代理になっているのが裕次郎。仲間の岡田真澄、弟・津川雅彦たち、ともに青春を過ごした連中は、映画会社にいるやつもいれば、テレビ局のディレクターになっているのもいる。夏久はマコちゃんの恵梨と結婚していて……という『狂った果実』の後日譚です。当時、中年に差し掛かっていた津川雅彦や、岡田真澄を使うという発想です。映画黄金時代を築いた裕次郎が、斜陽の映画界で映画に殉じていく物語です。最初はテレビスペシャルで企画しました」

 その「ゼロックス・スペシャル 船、傾きたり」企画草案は、79年に倉本によって書かれた。

 しかし、結局実現をみなかった。これが企画された79年秋、石原プロがテレビ朝日系「西部警察」をスタートさせる。小林専務の「ドンパチ路線」はますますエスカレート。空前の「西部警察」ブームが席巻することになる。

 その後、北海道・富良野に移った倉本は、84年、脚本家と俳優志望者のために「富良野塾」を開いた。裕次郎が生還率3%の解離性大動脈瘤の手術から奇跡の生還を果たしてから3年後のことだった。

 85年、小林専務から倉本に映画の脚本の依頼があった。
「どんな映画を作りたいんだ?」の問いに、小林は裕次郎の言葉として、こう話した。

「派手なドンパチはもう沢山だ。そんな仕掛けは何もいらない。そんなことより自分は今回、役者としての仕事がしたいンだ。役者としての脚本を書いてくれ」(「夏に死す──追想・石原裕次郎」)

 大スターの石原裕次郎が「役者としての仕事がしたい」と思ったことに、倉本は衝撃を覚えた。昭和30年代、日本映画界のトップに君臨した映画スターが「役者がしたい」と考えていることを、小林から聞いた倉本は、その裕次郎のために脚本を書こうと思ったのである。

 その晩、小林から再び電話が掛かってきた。「『狂った果実』からスタートする話。映画会社を舞台にした話」についてだった。つまり「船、傾きたり」に、裕次郎は「のっているらしい。とにかくそれをシノプシス(あらすじ)にしてほしい」ということだった。

 そこで、まずは検討用の映画プロットを書くことになり、倉本は改めて裕次郎主演の「船、傾きたり」のプロットを90枚ほどにまとめた。1日半で一挙に書き上げたのである。

 6年前の「船、傾きたり」は、裕次郎の主演デビュー作『狂った果実』の主人公たちの「その後」として描かれていたが、今回は「現在の石原プロモーション」と重なるイメージとなっている。

 小林専務との約束の日。猛吹雪のなか、富良野塾までやってきた小林は、ペラで90枚の「船、傾きたり」を読み、何度かうなずいた。「ありがとう。恩に着る。帰って石原にすぐ見せる」と言って帰京した。それから2日後、小林から「石原がやっぱりもひとつ乗れんらしい。大至急次のをもひとつ書いてくれ」と電話があった。

 今回の取材で、倉本はこう振り返った。

「ぼくは、『大箱』『中箱』『小箱』ってプロットを書くんですよ。この90枚の『船、傾きたり』は『中箱』で、ほとんどシナリオになっています。だから渡哲也、舘ひろしの役も想定して、相当細かいところまで詰めていますね。で、このプロットに裕ちゃんは乗ったんですよ。ただコマサ(小林)が『映画会社が潰れる話なんて縁起でもない!』って、もめにもめてポシャるんです。これは、ぼくもやりたかったなぁ」

 85年3月、「船、傾きたり」に代わる、もう一つの脚本について、裕次郎と話し合いをするために、倉本はハワイに呼ばれた。

 裕次郎は倉本に「役者としての仕事がしたい。じっくり取り組んでみたいんだ」と明るい顔で話をした。「西部警察」は前年の10月22日に最終回を迎えていた。裕次郎は、映画を撮るために、自らテレビ朝日上層部に、番組終了を申し出たのである。「これで映画に専念できる」と裕次郎は意気軒高だった。しかし、その時すでに肝細胞がんに侵されていたのである。

 倉本はハワイでの3日間の打ち合わせについて、こう振り返る。

「裕ちゃんは、ヘミングウェーの『老人と海』をずっとやりたいと言っていましたね。彼はとにかく海が好きなんですね。結構、裕ちゃんとしゃべりました。その時は病状が予断ならない状態とは知らずに、真剣に打ち合わせを続けていました。ぼくの中では、裕ちゃんが言っていた、ヘミングウェーの『老人と海』が、やはりありましたね。結局、死ぬときは独りでしょう? その独りの孤独に、ぼくはドラマを収斂したかった」

 それからしばらくして裕次郎が帰国してから、倉本は東京で裕次郎、渡哲也、小林専務と何度か映画プロジェクトの打ち合わせをした。しかし、シノプシスは一向に進まなかった。裕次郎が抱いているイメージと、小林が望む「石原プロらしさ」。相反するベクトルゆえ、倉本のなかで構想がまとまらなかったという。

 86年4月1日。倉本は久しぶりに裕次郎に会った。映画プロジェクトの話が進んで、裕次郎の盟友で、倉本とも日活時代からの仲間である斎藤耕一が監督として加わることになり、赤坂東急ホテル1301号室で打ち合わせをした。

 倉本によれば、この年の4月は、打ち合わせのために3回、富良野から上京している。裕次郎との打ち合わせの後は、渡哲也と飲むのが常だった。酒が飲めなくなった裕次郎に気取られないように、渡とはいったん別れてから、別な場所で落ち合っていた。

 5月の初め、いつものように裕次郎たちとの打ち合わせ後、渡と飲んでいた時のことだった。渡から、裕次郎ががんで余命宣告を受けていることを聞かされた。シナリオが出来上がっても裕次郎はもう映画を作れなかった。ただ、裕次郎に希望をもたせるために、渡たちはシナリオをすすめているふりをしていた。あなたをだましていました、すみません。と渡は倉本に両手をついた。

 裕次郎が亡くなる4カ月前、87年3月に倉本は療養中の裕次郎をたずねて夫人と一緒にハワイへ向かった。裕次郎夫妻と会って、30分ほど談笑したが、映画の話は一切しなかったという。

 もしも倉本との「船、傾きたり」が成立していたら? ヘミングウェーの「老人と海」のような男の孤独を描く映画が成立していたら? 裕次郎と倉本の「映画にかけた夢」が実現していたら? 映画史が変わり、裕次郎への評価も変わっていたかもしれない。「敗れた夢」「かなわぬ夢」も「永遠の夢」なのである。(敬称略)

(取材・構成 娯楽映画研究家・佐藤利明)
※週刊朝日オンライン限定記事