俳優の田村正和さんが4月3日、亡くなった。享年77。二枚目の代名詞のようなたたずまいと、親しみやすい役柄とを自在に行き来する独特の空気感で、見る者を虚構と現実のはざまにいざなう、本物のスターだった。



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 訃報が公になったのは5月半ば過ぎ、田村さんが心不全で4月3日に亡くなり、四十九日間近になってからだった。表舞台からの退場も闘病も知らせず、田村さんはひっそりとこの世を去った。

 眠狂四郎のようにクールで、古畑任三郎のように飄々(ひょうひょう)として、最期までかっこよすぎないか、という思いすら抱く。田村さんが2009年、モンテカルロ・テレビ祭で最優秀男優賞を受賞したTBS系ドラマのタイトルが浮かんでくる。「そうか、もう君はいないのか」

 田村さんは、大正から昭和にかけて活躍した大スター、阪妻こと阪東妻三郎の三男として1943年、京都に生まれた。15歳上の長兄、田村高廣さん(2006年死去)、3歳下の四男、田村亮さんともに俳優という芸能一家なのは知られている。デビューは成城学園高校在学中の1961年。約60年の芸歴に比して、自分を語る言葉は驚くほど少ない。その寡黙さが、端正な容姿に神秘的なイメージとして重なり、スター性を高めた。

 京都の生家にはテニスコートが2面あり、父は近隣の子どもたちを集めて運動会を開いた。絶頂期の阪妻は遊びぶりも豪快を極め、祇園の芸妓を総揚げし、花見小路から八坂神社まで続く行列を繰り広げたという。

 父とは普通の親子のように手をつないで街を歩いたり、映画を見に行ったりすることもなかった。だが、田村さんは兄弟の中でただひとり、父の仕事にあこがれ、小学生の時から「将来は俳優になる」と宣言していた。父は父で、「役者になるには高廣はばか正直すぎる。役者として大成するのは、いい意味でふてぶてしく、わがまま気質の正和だ」と言っていたそうだ。

 やがて一家は東京に移る。それからまもなく、父が51歳で急死、田村さんは9歳だった。後年、田村さんは、「その日、家に帰ると人や花がどんどん来る。事態がわかってないから、弟と一緒にはしゃいでいた」と振り返っている(2006年7月16日付日刊スポーツ)。

 1960年、高廣さん主演の松竹映画「旗本愚連隊」(福田晴一監督)の撮影現場で、関係者の目に留まり、同作品の端役として出演する。父・阪妻、兄・高廣さんに負けず劣らずの美形に、スタッフはざわめいたことだろう。翌年には、松竹映画の専属となり、「永遠の人」(木下恵介監督)で本格デビューを果たす。

 しかし、当初はスターの華やかさに乏しく、滑舌に難があったこともあり、脇役に甘んじていた。一方、父から「役者には向かない」といわれていた高廣さんは、50年代から60年代にかけて、「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾歳月」「笛吹川」(いずれも松竹・木下恵介監督)に出演し、名優への階段を上っていく。田村さんは、存在感が薄い脇役のまま66年にフリーになった。

「阪妻の息子という肩書を重荷に感じる自覚があれば良かったんだけど、努力もしないで堂々としていた。大学出た大人なのに、俳優という“花”の根っこの部分や、ほかの俳優たちがどれだけ鍛錬してその場にいるのかを見極められなかった。だからこの程度の俳優にしかなれなかった」と前述の日刊スポーツ紙の取材で謙虚に語っている。

 注目を浴びたのは、70年のTBS系ドラマ「冬の旅」。立原正秋の原作を得て、木下恵介が手がけた本作で、それまでマイナス評価でしかなかった地味さと翳(かげ)りが、特に女性の心を動かして人気に火がついた。72年、フジテレビ系の連続時代劇「眠狂四郎」で主役の狂四郎を演じ、人気は不動のものに。作者の柴田錬三郎じきじきの指名だったという。あさま山荘事件の起きた年だった。虚無と冷徹のなかに優しさを秘めたヒーローが、広く受け入れられたのだ。

 物語の中だけで生きることが許されるアウトローのヒーロー像には、小説『大菩薩峠』の主人公、机竜之助や講談「天保水滸伝」の平手造酒らが挙げられる。こうした華と憂い、品格と知性を備えた正統派の「二枚目」を演じられる役者は黒澤映画の常連の木村功や、市川雷蔵らだった。近年では平幹二朗、片岡孝夫(現・仁左衛門)らであり、田村さんもその系譜に連なった。

■80年代後半に イメージを一新

 田村さんには、新劇や歌舞伎の俳優と比べ、「声が通らない」という評がついて回った時期がある。ところが、この弱点がテレビ時代にぴたりとはまった。80年代後半には、印象を一新し、TBS系の「うちの子にかぎって…」や「パパはニュースキャスター」シリーズなどで注目を浴びる。それまで石立鉄男の独壇場だった、いささか軽佻浮薄、親しみやすい主人公を演じて、ファンをいい意味で裏切った。時代はバブル、テレビの人気者も、仰ぎ見るスターから、身近な存在に変わりつつあった。

 続いて、大人の恋愛を描いたフジテレビ系トレンディードラマ「ニューヨーク恋物語」(88年)、30歳も年下の女性に恋をしかけるバー経営者の役。田村さんだからこそ成り立つ役を、キザに、オーバーぎみな演技でこなし、その演技に照れ、はにかんでいるような表情が魅力的だった。

 そして、94年のフジテレビ系「警部補・古畑任三郎」が、田村さんの代名詞となる当たり役に。こんな刑事いるわけないと思いつつ、三谷幸喜さんの脚本と田村さんの洒脱な演技を人々は楽しんだ。下敷きにした米国の人気ドラマ「刑事コロンボ」ともまた違う、日本の名物刑事が誕生した。

 田村さんは、役柄に注文を出したり、「こういう役を」と自分から口にしたりすることは決してなかったという。オファーがあり、できると判断すれば、引き受け、リハーサル時からセリフは完璧に入っていた。ただ、どんな役でも髪形としゃべり方は変わらなかった。

 阪妻、アラカン(嵐寛寿郎)、エノケン(榎本健一)、裕ちゃん(石原裕次郎)、錦ちゃん(萬屋錦之介)、健さん(高倉健)……。往年のスターは例外なくファンから愛称で呼ばれてきた。ならば、田村正和は? 端正なたたずまい同様、「田村正和」でしかなかった。田村正和を生き、二枚目の美学を貫いて人生の幕を下ろした。家族をもまた、完璧な共演者として。(由井りょう子)

※週刊朝日  2021年6月4日号