東京都内の小さな書店Titleで8月、『文にあたる』(牟田都子、亜紀書房 1760円・税込み)の出版記念展が開かれ、牟田さんが自宅で使用している見台や筆記具、辞書、蔵書の一部などが展示された。その中から、多くの付箋が貼られた本を手に取ると、こんな一文に印が付けられていた。

<私は「知らないことを知ってゐる」ために、辞書にたより、参考書にたよる。/しかし、仕事はこはい。/人間のすることに絶対に完全なものは無い>。本は「校正の神様」と呼ばれた西島九州男の『校正夜話』(日本エディタースクール出版部)だ。

 牟田さんは大手出版社の校閲部を経て、2018年から個人で校正の仕事を請け負っている。本書は、仕事や書物への想いを綴った初の単著だ。

 収録された50のエッセイの冒頭には、福岡伸一や寺田寅彦、レイモンド・チャンドラーなどの文章が引用され、これらの著者の作品へと読者を誘う手引きにもなっている。

「じつは、そのかたちは思わぬ収穫だったんです」と牟田さんは話す。原稿を書き始めた当初は、「校正とは」と身構えたものが多く、自分でも面白くなかったという。あるとき編集者から「このスタイルだと書きやすいみたいですね」と言われ、今の形式に揃えた。

 校正への向き合い方がよくわかるのは<「本来は誤り」であっても>と題されたエッセイだ。五十嵐大『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎)から文章を引用、「聴こえる」と「聞こえる」を例に自身の考えを綴っている。

 手元の辞書では、話に耳を傾ける際でも「聞こえる」が正しいとあった。多くの辞書にあたっても「聴こえる」を載せているものは見つからなかった。

 ゲラ(校正刷り)を戻す際、辞書のコピーを添付し、「聴こえる」は「『本来は誤り』とする辞書もあるようです」と鉛筆で記した。「だけど、しばらく心の中はもやっとしていました」という。「誤り」かもしれないが、著者にはそう書く理由があったのではないか。

「著者に『校正』は絶対でない、注意喚起くらいに思ってもらえたらいい。鉛筆を見て、ああここが気になったんだ。読者もそうかもしれないから検討してみよう。そう考えてもらえたら、目的は達成したことになると思っています」

 赤字で記すのは明らかな間違いに限り、疑問は鉛筆にする。校正中に消しゴムをかけることが度々ある。

「そうやって迷っている時間が結構あります。著者にどんどん聞けてしまえたら早いし楽だろうと思います。けれども、わたしが育った現場では、聞くべきことを絞って簡潔に聞きなさいと教わってきましたから」

「最近ちょっと嬉しかったこと」を訊ねると、「夕焼け空」と答えた。「仕事の手を止めて、廊下まで見に行ったりするんです。一瞬ですけど、飽きないですね」

(朝山実)

※週刊朝日  2022年10月7日号