2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は城東地区の商業地「錦糸町」を走る都電だ。



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 駅や線路を挟んで、街の雰囲気ががらりと変わるのは決して珍しいことではない。東京駅の丸の内口と八重洲口、池袋駅の東口と西口など、異なる文化圏が街を形成する。

 城東地区で商業地の中心となる錦糸町もそうだ。JR総武本線が走る錦糸町駅を挟んで、昔ながらの歓楽街の雰囲気を残す南口側と、近年再開発が進む北口に分かれている。繁栄する街並みを築き上げたのは、都電の寄与するところが大きい。

 写真は錦糸堀車庫前を走る25系統須田町行きの都電。東西に走る京葉道路(国道14号線)に敷設された江東橋線には、この25系統と29・38系統が運行されていた。画面右奥が京葉道路と四つ目道路が直角に交差する錦糸町駅前交差点で、こちらには猿江線が敷設され、28・36系統が運行された。

■繁華街の真ん中にあった都電の車庫

 国鉄(現JR)錦糸町駅前には25・28・29・36・38の五系統と国鉄総武線の線路を挟んだ北側には16系統の計六系統の都電が運行されていた。その路線はお膝元の江東区と隣接する墨田区、そして江戸川区の一部を包括していた。ことに通勤・通学時には乗車を待つ人々が、錦糸町駅前や錦糸堀停留所に列をなし、次々に満員の都電が発車していく光景は「都電の楽園」とも言うべき盛況ぶりだった。

「地下鉄網の整備が遅れていたこの地域の都電を存続させよう」という機運もあったが、当初の計画通り1972年11月に全廃されてしまった。ことに、旧城東電気軌道を引き継いだ25・29・38系統の路線には、残存した荒川線に匹敵するほどの専用軌道区間があっただけに、経営の改善策も諮れず廃止の道を辿ったことが惜しまれる。

 写真左端に総武本線の築堤が見える。これをくぐるガードを抜け、その先の貨物線踏切を越すと、1948年のルート変更で終点が錦糸町駅前になった16系統が発着している。

 写真中央から右手前に展開する曲線は錦糸堀車庫への出入庫線だ。都電の車庫といえば、立地上やや不便な場所にあるのが常だが、錦糸堀車庫は駅前の繁華な歓楽街に堂々と設営されていた。この錦糸堀車庫は1923年8月30日に本所亀沢町車庫から分離移転したが、二日後に起きた関東大震災による火災で焼尽したというエピソードがある。都電廃止後の車庫の跡地は商業ビルに転換されて、現在は丸井錦糸町店が盛業中だ。

 国鉄錦糸町駅南口には、隣接した三つの都電停留所がある。写真左手前の錦糸堀車庫前と右端の奥と四つ目道路上の錦糸堀、画面左側のダンプトラックの後にあたる位置に錦糸町駅前が所在する。ちなみに猿江線の錦糸堀と錦糸町駅前はわずか86mの距離で、1958年に国鉄乗換え客の利便を図るため延伸された。

■東京大空襲でターミナルが罹災するも…

 錦糸堀車庫前の西側は、わずかな距離ではあったがセンターリザベーション方式で軌道が敷設されていた。片側二車線ながら、自動車が雑踏を極める京葉道路上のオアシスのような存在で、日本橋に折り返す38系統の乗務員が車中で休息する光景も見られた。

 1936年に錦糸堀を発着する市電は12・29・30・31の四系統だったが、1942年に前述の城東電気軌道の路線が市電(翌年から都電)に統合されることになった。統合時、錦糸堀の市電の軌道は旧城東電軌の小松川線に接続されておらず(相互乗り入れしていた洲崎ではつながっていた)、統合後1944年の運転系統を調べると非常に興味深い。

 1944年、都電になってからの運転系統は2系統(三田〜小川町〜錦糸堀)、30系統(錦糸堀〜水天宮〜築地)、31系統(錦糸堀〜洲崎〜大手町)の三系統に加えて、旧城東から引き継いだ路線は39系統(錦糸町〜境川〜洲崎)、40系統(錦糸町〜西荒川…東荒川〜今井橋)、41系統(錦糸町〜境川〜葛西橋)の三系統が運転されていた。

 1945年の東京大空襲で前述の錦糸堀車庫や旧城東電軌の錦糸町ターミナルが罹災した。戦後復興の軌道敷き替え工事が1947年に完成したことで、錦糸堀と小松川線の軌道がつながり、運転系統と区間が大幅に改編された。ちなみに、荒川放水路を越した一之江線(通称:今井線・東荒川〜今井橋)は戦後26系統となったが、1952年にトロリーバスの開通で廃止されている。

■戦前からの娯楽場「江東楽天地」

 都電の背景になっている相似形のビルが、映画館・飲食店・温泉と万能のレジャー施設で人気を博した「江東文化劇場」(写真左)と「江東楽天地(後年・東京楽天地に改名)」だ。いまや昭和の語り草になったが、双方の屋上には提灯を吊り下げた「ビアガーデン」が営業中なのが懐かしく感じられる。

 江東楽天地の建物は1980年代の再開発で全面改築され、現在は「西友錦糸町店」「錦糸町PARCO」になり、伝統の映画街も「TOHOシネマズ錦糸町 楽天地」として隆盛しており、「シネマの殿堂は西の有楽町 東の錦糸町」とも呼ばれている。

 余談であるが、江東楽天地は1937年に竣工したレジャー施設の先駆けで「錦糸町界隈の工場勤務者に健全明瞭な娯楽を提供しよう」というコンセプトのもと、宝塚歌劇や阪急の創始者、小林一三が設立に尽力した。国鉄錦糸町駅に隣接した江東楽天地の敷地は、1931年に砂町に移転した汽車製造会社東京支店の錦糸町工場跡であった。

 錦糸町交差点の歩道橋から周囲を展望すると、錦糸町のランドマークでもある東京楽天地の建物が際立って目立つ。錦糸町駅前を発着する都バスが何台も眼下を走り去り、ここが「都バスの楽園」であることを肌で感じ取ることができる。日本がもう少し早く「オイルショック」に見舞われていたら、都電は残存したか……? 多くの都電で賑わった交差点は何も答えてはくれない。

■撮影:1964年8月22日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。