本能寺の変で信長を討った「逆臣」として知られる明智光秀。その光秀のネガティブなイメージが、変わりつつある。どのような生涯を辿り、本能寺の変に至ったのか。足跡を遺した城を巡った、AERA 2020年4月6日号の記事を紹介する。



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 放映中のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀。これまで光秀は本能寺の変で信長を討った「逆臣」としてネガティブなイメージを持たれることが多かった。だが、今回のドラマでは一変。“汚名返上”とばかりに、爽やかな青年武将ぶりが際立っている。

 1520年前後に生まれた光秀については、誕生から30歳くらいまでの“信じるに足る史料”が残されていない。「麒麟がくる」の資料提供を担当している歴史学者の小和田泰経氏によると、光秀の出生地には主に二つの説があるという。

「岐阜県可児(かに)市の明智城と恵那(えな)市の明知城です。どちらも現在は曲輪(くるわ)跡や土塁(どるい)とおぼしき遺構が残るのみで天守はありません」

 明智城は、自然の地形を生かして築城された中世の山城。城の登城口にあたる大手門跡には「冠木門(かぶきもん)」が建てられている。2本の柱の上部に冠木を貫き渡した屋根のない門だ。

「この冠木門は当時の遺構ではなく、推定により近年再建されたものですが、戦国時代の雰囲気を醸し出しています」(小和田氏)

 大手門から本丸跡までは“明智城址散策道”が整備され、約10分で辿り着ける。この本丸跡は、合戦時に籠城する場所で、城主の生活する場所ではない。
 明智城の城主を務めていたのは、光秀の叔父・光安(みつやす)。1556年の長良川の戦い後、稲葉山城主・斎藤義龍(よしたつ)に攻められて落城した。このとき光秀は城を脱し、越前の朝倉義景(よしかげ)を頼り落ち延びたとも伝わっている。

 恵那市の明知城は、明知遠山氏が築いた平山城。平山城とは、平野部にある丘陵などを利用して築いた城だ。

 登城口からの道は整備されてはいるが、足元は良好とまではいえない。だが曲輪(くるわ)や土塁、石垣、堀など当時の遺構も多い。また遺構ごとに説明看板が立てられているので、城散策初心者でもどのような遺構なのかわかりやすい。

 光秀は同地で生まれ、後に明智城へ移ったとの説もあるが、小和田氏によると、現在は可児市の明智城説が有力だという。

 光秀が史料に登場するのは、信長が足利義昭(よしあき)を奉じて上洛する1568年頃からである。この頃の光秀は、室町幕府15代将軍となる義昭と信長の双方に仕えていたが、義昭が信長と敵対すると信長についた。その後、“比叡山焼き打ち”での活躍により、信長に比叡山延暦寺の監視と、領地支配を任されて築城したのが坂本城だ。

 坂本城は琵琶湖湖畔に築かれた湖城で、信長の琵琶湖水運を押さえる拠点となった。後に信長が対岸に安土城を築城する。当時、最も高速の移動手段だった船で、信長のもとに駆け付けることもできた。

 だが、坂本城は宅地化の影響を受け、現在はほぼなにも残されていない。琵琶湖湖畔には、坂本城址公園が整備されてはいるが、残念ながら本来の坂本城の遺構はない。

「周辺を散策し、地形や琵琶湖の佇まいから、かつての栄華をしのぶことはできます」(小和田氏)

 光秀は坂本城を拠点に信長の畿内平定に尽力しながら、並行して丹波平定にも駆りだされた。光秀が丹波平定の拠点として京都市郊外に築いた城が周山(しゅうざん)城だ。京と若狭を結ぶ周山街道を押さえる要衝に築城されている。

「主郭(しゅかく)周辺に残された崩落した天守台を始めとする石垣群は必見です。なかには10段ほど積み上げられた“高(たか)石垣”も残っています」(小和田氏)

 ただし徒歩圏に駅がなく、京都駅からバスに乗るか、ふもと付近にある道の駅の駐車場を利用するしかない。

 光秀が丹波平定の攻城戦で苦戦した城が、“丹波の赤鬼”と恐れられた、赤井(荻野)直正の居城・黒井城だ。1579年の攻略後は、光秀重臣の斎藤利三(としみつ)が居城とした。現在は土塁や天守台の石垣などが残る。

 最寄り駅であるJR福知山線黒井駅から黒井城の登山口までは約10分と、アクセスもよい。だが登山口から主郭までは滑りやすい山道を約40分も登らなければならないため、なかなかの体力を要する。黒井城下にある興禅寺は利三の屋敷跡である。ここで利三の娘の福(ふく=後の春日局)が生まれている。山城を登る自信のない人は、戦国期の館(やかた)の風情が堪能できる興禅寺を見学するだけでも楽しめる。

 次に訪れたいのが、丹波を平定後に光秀が整備した福知山城だ。ここであげる八つの城では唯一、復元天守が建てられている。天守などの石垣には古い墓石や灯籠などの転用石が多く用いられ、石垣を丹念に見て回るのも一興だ。

 現在の城下町は、光秀の時代に整備されたもの。小和田氏によると、光秀は城下を洪水から守るため治水を行い、福知山を流れる由良川に堤防を整備するなど善政を敷き、領民に慕われていたという。地元・福知山市では、現在でも多くの人が光秀をたたえている。

 光秀が丹波平定の拠点として、1578年に築城した亀山城城下でも、名君として慕われていたという。

「亀山城は口丹波(くちたんば)と呼ばれる京への入り口に築城され、当時、丹波で最も重要な城として位置づけられていました」(小和田氏)

 要衝の地に築城させたということは、よほど信長は光秀を信頼していたのだろう。しかし光秀は信長の信頼を裏切り、この城から約20キロ先にある、本能寺を目指した。

 そして最後に訪れたい城が、勝龍寺(しょうりゅうじ)城である。本能寺の変の11日後に起こった山崎の戦いで、光秀は羽柴秀吉軍に備えるため勝龍寺城を占拠し、近くに本陣を構えた。小和田氏によると、「西国街道を押さえる要衝に築かれ、平城(ひらじろ)ながら川の合流点に築いて防御を高めている堅城」という。

 しかし円明寺川周辺で行われた、山崎の戦いの本戦に敗れた光秀は、勝龍寺城での籠城を諦めると坂本城を目指して敗走。その途中、落ち武者狩りに襲われ、深手を負い自刃したといわれる。

 光秀が、本能寺の変を起こしたことは歴史的事実だが、その動機は依然として不明のままである。なぜ、信長を討ったのか。光秀ゆかりの八つの城を巡りながら、その心情に思いを馳せた。(ライター・湯原浩司)

※AERA 2020年4月6日号