1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。昨夏に引き続き特別編として、諸河さんが半世紀前の学生時代に撮影した各地の路面電車の風景をお届けする。第5回は中国・四国・九州地方で活躍した山陽電気軌道、伊予鉄道松山市内線、大分交通別大線の路面電車にスポットを当てた。



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 源平合戦の古戦場跡「壇ノ浦」。

 冒頭の写真は、壇ノ浦を一望する御裳川(みもすそがわ)公園を右手に見て、国道9号線上の軌道を下関駅に向かう山陽電気軌道(以下山陽電軌)長関線の電車だ。次の御裳川停留所は壇ノ浦観光の下車駅で、関門海峡を眼下に眺める「火の山」へ登る火の山ロープウェイ・壇の浦駅や、壇ノ浦で入水した安徳天皇を祀る赤間神宮も程近い。

 次のカットは長関線と市内線が分岐する唐戸交差点を走る市内線幡生行きの電車。下関の中心地といえるこの界隈は瀟洒な洋風建築が散見され、山陽電軌の路面電車と良くマッチした。右側の尖塔のある建物が1915年に竣工した旧秋田商会ビルで、屋上には日本庭園と茶室がある。現在は観光情報センターとして機能しており、屋内の見学もできる。その左隣の建物が1900年竣工の下関南部町郵便局舎で、現役最古の郵便局として国の登録文化財建築物になっている。近隣には旧下関英国領事館の建物もあり、路面電車が消えた下関の散策スポットとしておすすめする。

■本州最西端を走る路面電車

 山陽電軌の最後のカットは長州鉄道から引き継いだ幡生線を走る市内線下関行きの電車。幡生線はその前歴から鉄道法で運行されており、全線単線の専用軌道で敷設されていた。ちなみに、長州鉄道は1914年に東下関〜小串を開業。1925年に当時の国鉄が山陰本線の一部として長州鉄道の小串〜幡生を国有化した。この時、長州鉄道に残存した幡生〜東下関を同社の手で電化して、電車運転が始まった。この路線を譲り受け、唐戸〜東下関(後年東駅に改称)の市内線を1929年に延伸して、幡生線と結んだのが山陽電軌だった。

 本州最西端に位置する山陽電軌は、国鉄(現JR)山陽本線下関駅前と同長府駅前を結ぶ長関線と大和町線、市内線、それに市内線の終点東駅(旧称東下関)と幡生を連絡する幡生線の4線で構成され、17700mの営業距離だった。幡生線は単線、他は複線で敷設されていた。幡生線は地方鉄道法、他線は軌道法で運行され、軌間は1067mm、電車線電圧は600Vだった。1969年10月に大和町線と長関線が廃止。1971年2月に残存区間全線が廃止されたため、山陽電軌は鉄道軌道事業から撤退し、社名をサンデン交通に改称している。

■坊ちゃん列車で観光振興

 城下町の風情がある松山。

 その街を舞台にした夏目漱石の小説「坊ちゃん」に登場する「坊ちゃん列車」を復活させ、いまも市内公共交通の要として松山では路面電車が活躍する。

 伊予鉄道松山市内線の冒頭写真は松山市内線の根幹をなす城南線を走る道後温泉行きの電車。新緑の背景には松山城が遠望できる。画面右側が松山市役所で、左側に連なっているフィンガーウィンドーの建物が1929年に竣工した愛媛県庁舎。

 写真の車両は1967年に廃止された広島県の呉市電から転属したモハ1000型で、松山市にデビュー当初の一コマ。後年、ワンマン化改造でヘッドライトの位置が屋根上に変わっている。

 次のカットは前述の「坊ちゃん列車」で、松山観光のシンボルとして2001年から走り始めた観光列車だ。そもそも「路面電車が走る軌道に蒸気列車(実際にはディーゼル動力だが)を走らせる」という、奇想天外なアイデアを実現させた関係者諸賢の尽力に喝采を贈りたい。蒸機のドラフト音は音源から車外スピーカで流し、水蒸気を使用した発煙装置で煙突からの煙を演出するなど、このレプリカ列車は蒸機通を認ずる筆者が観察しても、非の打ちどころのない出来栄えだ。ご覧のように明治期の制服で運転する乗務員は一幅の絵になるのだ。

 この機関車、終点の松山市駅や道後温泉駅では、必ず方向転向してから列車を牽引する。「転車台もない施設でどうやって回転するのか」興味津々で現地を訪れた。最後のカットが道後温泉駅で転向中のD2型14号だ。機関車の下部に設置された油圧ジャッキによる方向転換装置で車体を浮かせ、人力で180度転回させてから軌道上に復線させるシーンを撮影することができた。

 モータリゼーションで交通渋滞が頻発し、路面電車撤去論が吹き荒れていた高度成長時代、松山市では行政当局が徹底して軌道内への自動車乗り入れを禁止したため、市内線の路線廃止縮小などが回避され、市民の足を守った経緯がある。その後、車優先の情勢が変化し、路面電車の存続からLRT導入による空港線やベットタウンへの新線計画など、松山市と伊予鉄道の路面電車未来ビジョンに期待したい。

■「湯の町」別府に通った路面電車

 路面電車で温泉に通える都市は、函館の湯の川温泉、花巻の鉛温泉郷、松本の浅間温泉、松山の道後温泉、それに大分県別府市の別府温泉の5都市を数える。大分と湯の町別府市を結ぶ大分交通別大線(以下別大線)は、九州初の電気鉄道として大阪や東京よりも早い1900年に開業している。軌間は1067mmで電車線電圧は600Vだった。

 別大線の冒頭写真は「別大マラソン」で有名な別大国道(国道10号線)の脇に敷設された単線軌道を走る大分駅前行きの電車。画面右側に大分湾が広がり、その奥におサル見物の観光地高崎山が遠望できる。電車の背景には並行して走る国鉄(現JR)日豊本線が写っている。

 別大線は前身である豊州電気鉄道によって、大分と別府の都市間連絡鉄道として計画されたため、風光明媚な大分湾に沿って快適なスピードで走っていた。

 次のカットは湯の町別府市の温泉街 北浜停留所に到着する亀川行きの電車。背景には昔ながらの旅情豊かな木造三階建温泉旅館が写っている。その左隣では高層のホテルが建設中で、1970年の大阪万博を2年後に控えた世情を反映している。北浜には別大線の運転係室が所在し、運転を交代する乗務員が待機していた。

 写真の150型は別府大分電鉄時代の1928年に川崎車輛で製造された100型ボギー車を連結運転用に改造したもので、密着連結器やエアホースなどが付加されている。

 別大線は、途中を並行して走る国道10号線の拡幅計画で、狭隘な地形の道路用地として路線撤去を要請された。大分、別府両市からも路面区間の交通渋滞緩和のための撤去要請も加わり、モータリゼーション拡大の中で、1972年4月に全線18400mが廃止された。

■撮影:1968年3月29日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。

※AERAオンライン限定記事