認知症の人がトラブルや事故を起こしても、本人や家族を支える街づくりが全国的に進んでいる。当事者の意思を尊重した条例を作ったり、民間保険を使った事故救済制度を導入したりする自治体を編集部が独自に調査した。



「転んで手を骨折して、できることが制限されてから、認知症が一気に進みました」

 こう語るのは東京都世田谷区に住む鈴木利幸さん(73)。6年ほど前に亡くなった母親が認知症だった。

 母親はもともと食事に行ったり、おしゃれをしたりするのが好きだった。だから、認知症になってからは一緒に外食や旅行に出かけて楽しませようと努めてきた。

「最後のほうは自分の意思もなくなってしまったようなところもありましたが、やれることはやったほうがいい。生きる執念や欲があると、元気になると思います」

 こうした認知症の人や家族を街全体で支えるため、世田谷区は「認知症とともに生きる希望条例」を制定し、10月に施行した。条例の検討会には認知症の人本人もかかわった。区によると、認知症の当事者や家族の思いが盛り込まれた条例は東日本で初めてだという。今後、区民には認知症になった時の備えとして、生活についての希望や意思を記す「私の希望ファイル」の活用を求める。

 そのほか、区内各地に認知症相談窓口を設置したり、「認知症サポーター養成講座」を実施したりしている。区の担当者は狙いを説明する。

「認知症になってもできることはあります。『何もできなくなる』という意識を少しずつ変えていく。認知症のバリアフリーを実現していきたい」

 西日本では、先行する自治体がある。和歌山県御坊市は「認知症の人とともに築く総活躍のまち条例」を制定し、2019年4月に施行。認知症の人の視点に立った取り組みを実践している。

 例えば、御坊郵便局の建物には1.8メートル四方の大きな〒が描かれている。目の前に郵便局があるにもかかわらず道に迷った認知症の人がいたためで、よく見えるようにした。銭湯では「シャンプーとボディーソープの違いがわからない」という声を受け、ボトルに「あたま」「からだ」とマジックで書くようにした。

 条例ではないが、福岡県大牟田市は05年に「認知症の人とともに暮らすまちづくり宣言」を出した。商店街では「認知症サポーターのいる商店街マップ」を作成。商店街の人らが「認知症サポーター養成講座」を受講し、認知症の人が買い物で道に迷ったり、支払いで戸惑っていたりすれば、手助けする。

 また、ヤマト運輸大牟田支店では認知症の人がクロネコDM便を配達し、ホンダカーズ大牟田北手鎌店でも認知症の人が車を洗車する。ともにお金ももらえる。ホンダカーズの店長は言う。

「やりがいを感じてもらっています。目に見えて元気になった人もいます」

 こうした取り組みの背景には、25年に65歳以上の高齢者の5人に1人、40年には4人に1人が認知症になるという予測がある。地域ケアの取り組みに詳しい岡山大の宮島俊彦客員教授はこう語る。

「医療や福祉関係者だけで認知症に対応する時代ではない。認知症の方にも主体性を持って生きてもらおうというのが、自治体の狙いです。電車に乗ることができるか、商店でものが買えるか、銀行に行っても困らないか。認知症の人が暮らせるよう社会全体が変わっていく必要があります」

 認知症の人が安心して暮らせるようになるには、いざという時の備えが必要だ。

「人様に迷惑をかけないのが一番だが、万が一ということもある。その点で市の制度は安心です」

 こう話すのは、神戸市に住む松井正二さん(72)。妻が認知症で、要介護認定で2番目に重い要介護4まで進んでいる。信号や踏切の意味がわからず、自動車や電車が迫っていても渡ろうとすることがあるという。まな板をガスコンロの火にかけ、火災になりそうになったこともあった。

「どうしても普通では考えられない行動を起こしてしまう。事故のリスクはいつもあります」

 神戸市は19年、民間の個人賠償責任保険を活用し、事故を起こした認知症の人を救済する制度を作った。認知症と診断されると、「認知症事故救済制度」に入れる。電車などの事故で損害賠償を負った場合、最高で2億円まで補償。火災などの被害を受けた人に最高3千万円の見舞金が出る。保険料は自治体が支払う。

 加入者は4800人。飲食店でおしっこを漏らして座席が使えなくなったケースでは、座席の革の張り替えと営業ができなくなった分の損害賠償として約13万9千円が支払われた。水漏れで階下の天井や壁紙に損傷を与えたときには、28万6千円が支払われている。

 こうした救済制度は全国に広がっている。編集部の調べでは、少なくとも54の自治体が導入していた。東京都葛飾区では個人賠償責任の補償限度額は5億円。街を走る電車も多く、手厚い額になっている。長崎新幹線の整備が進む佐賀県武雄市は、沿線住民の不安の声を受けて3億円にした。そのほかにも、示談交渉サービス付きや、弁護士、裁判費用を補償するものもある。長野県下條村では、一人暮らしの高齢者が行方不明になるリスクがあるとして、捜索費用補償も付けている。

 背景には愛知県大府市で07年に起きた鉄道事故がある。認知症の男性が線路に降り、電車にはねられて亡くなった。JR東海は家族に720万円の損害賠償を求めた。16年に最高裁は家族の責任を認めない判決を出したが、事情によっては責任を問われる余地を残したため、認知症の関係者の間で不安が高まっていた。

 救済制度を設けた自治体のほとんどが保険料を肩代わりしており、認知症の人の家族に負担はない。損害賠償の補償だけではなく、認知症の人本人の傷害保険や被害者に対する見舞い費用補償などを用意しているところもある。自分が住む自治体がどういった制度を整えているのか、一度確認してみよう。

 自分の街にこうした制度がなくても、保険会社を利用すれば同様のサービスを受けられる。保険選びサイト「保険市場」を運営するアドバンスクリエイトの担当者は指摘する。

「認知症に関する補償の付いた保険の問い合わせが増えています」

 これまで監督義務のある家族に損害賠償責任が及んだ場合、補償の対象にはなっていなかったが、家族も対象にする改定が進んでいる。また、電車を運行不能にした際の損害も補償の対象とする個人賠償責任特約も増えている。

 損保ジャパンは昨年から自動車保険を見直し、監督責任のある家族らも補償の対象にした。保険料の割り増しはない。三井住友海上火災保険とあいおいニッセイ同和損保は17年から火災保険の個人賠償特約(年1930円、保険金限度額3億円)を電車を止めた場合の損害賠償も補償するよう見直した。

 認知症専門の保険も出ている。東京海上日動火災保険は18年から「認知症あんしんプラン」を販売。1億円を上限にした個人賠償責任補償や被害者死亡時の見舞い費用補償、認知症の人本人のケガの補償などをカバーする。保険料は月額1300円だ。

 このような保険を選ぶ際の注意点は何か。アドバンスクリエイトの担当者はこう話す。

「保険会社によっては改定が反映されている商品と反映されていない商品の両方があるため注意が必要。火災保険など長期契約に付く特約は改定が反映されていないケースが多い。しっかりと補償されるのか、保険会社や代理店に確認しておきましょう」

(本誌・吉崎洋夫)

※週刊朝日  2020年11月13日号