人生100年時代。長寿化は喜ばしいが、途中でお金が足りなくなってしまっては大変だ。かと言って、年をとってくれば「今から貯金」はもう手遅れ。そこで検討したいのが年金額そのものを増やす「年金繰り下げ」の活用だ。夫婦であれこれ戦略を練れば、思わぬ「増額」が見えてくる──。



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 関東地方に住むAさん(66)は、60歳を過ぎたころから夫婦の年金を増やしたいと思うようになった。夫の給料が60歳定年で激減したことにショックを受けてお金について勉強し始め、「制度」の存在を知ったからだ。

 制度とは「年金繰り下げ」。年金は「65歳受給開始」が基本だが、それを遅らせれば年金額を増やすことができる。

「夫の収入減を経験したので、老後は収入が減らない生活をしたいと思ったのです」

 Aさん夫婦は、役割分担で「調べるのは妻」が決まり。繰り下げ制度を調べては夫に報告していたが、65歳を前にしたある日、夫が「表にしよう」と言いだした。2人それぞれの年金のどの部分を繰り下げるのか、いくつかのパターンを考えてエクセルで一覧表を作り、金額を入れていった。

「要するに、夫婦の年金を“見える化”したのです。以前は数字をメモにしていましたが、見返すのに時間がかかる。その点、表は便利です。いつでも確認できるし、パターンごとの数字を比べることもできる。作って正解でした」

 Aさん夫婦はいま、ともに働きながら「繰り下げ待機」の生活を始めている──。

 人生100年時代を迎え、「長生きリスク」が指摘されている。長生きリスクとは、人は亡くなる時期が予想できないため、喜ばしい“誤算”ではあるものの、思った以上に長生きした場合にお金が足りなくなってしまう危険性のことを指す。

 長生きリスクを考えると、老後のお金は多ければ多いほど安心だ。しかし、若いうちならともかく、定年近くになると、子どもの教育が終わっていても増やすのには限界がある。ましてや60代で会社に再雇用される身となると、もはや生活するので手いっぱいだ。

 そこで老後の備えを万全にしたいのなら、年金繰り下げに注目したい。貯蓄ではなく、年金自体を増やす作戦だ。実際、繰り下げに成功した社会保険労務士でファイナンシャルプランナー(FP)の澤木明氏が言う。

「リタイア後の生活は夫婦の年金が中心になります。長寿化は今後も進みますから、2人の年金は少しでも増やしておいたほうがいい。私は、夫も妻も働き続けて年金を繰り下げていくのがこれからの『理想の夫婦』だと思っています」

 それにはAさん夫婦のように、2人でどのように増やしていくのかを話し合う必要がある。人生100年時代は「夫婦の年金戦略」が大切になってくるのだ。では、どのように戦略を考えていけばいいのか、ポイントを見ていこう。

 まずは、繰り下げの“威力”である。

 繰り下げは66歳を超えて、70歳まで1カ月単位でできる(2022年春以降は「75歳まで」に拡大)。老齢基礎年金(以下、基礎)、老齢厚生年金(以下、厚生)それぞれで繰り下げることができ、1カ月遅らせるごとに年金額が0.7%増える。仮に70歳まで5年遅らせると、42%も増える(0.7%×12カ月×5年)。

 イメージしやすいように具体的な夫婦を設定しよう。

 夫は二つのケースで考える。夫aは年間の年金額200万円(基礎78万円、厚生122万円)。国のモデル世帯の夫に近い「標準」だ。bは年金額260万円。基礎はaと同じだが、厚生が182万円と高く、大企業の元社員を想定している。

 一方の妻は、いまの50〜60代に多い「専業主婦」とした。若いころ会社に勤め、結婚して主婦になる設定。少額ながら厚生が受給でき、年間年金額は90万円(基礎78万円、厚生12万円)とした。

 さて、こうした夫婦が年金を繰り下げるとどうなるか。

 夫aと夫b、妻のそれぞれが、繰り下げで年金がどのくらい増えていくかを計算した(妻は基礎のみ繰り下げ。厚生は少額であるためなど)。夫が基礎・厚生ともに70歳まで繰り下げれば、aは284万円、bだと約369万円まで増える。一方、妻も約123万円まで増やせる。もちろん、繰り下げは5年続けなければならないわけではなく、いつやめても構わない。途中まで繰り下げた場合の目安がわかるように、1歳ごとの年金額を出しておいた。

 数字をさまざまに組み合わせれば、夫婦の年金額がわかる。つまりa夫婦の場合、65歳から受給すると夫婦で290万円となり、最高70歳で406万7600円まで増やせる。b夫婦では、65歳からの受給で350万円、70歳で491万9600円まで増やせる。なんと大企業の元社員が繰り下げると、夫婦で年500万円が見えてくるのだ。

 いずれにせよ、この金額の範囲内(a夫婦は「290万〜約407万円」、b夫婦は「350万〜約492万円」)に、ターゲットとなる「夫婦の年金額」はある。

 繰り下げを使った夫婦の年金戦略の一つ目のポイントは、妻の年金の扱いだ。

 いまは減少傾向にあるものの、かつて多くの専業主婦が年金“繰り上げ”を選んだ。繰り下げと逆で年金額は減額されるのに、である。夫の給料ではなく、自分の自由になるお金が欲しかったためなどとみられるが、長寿化で今後はその発想がリスクになる。

「繰り下げしている期間も生活費がまかなえるのなら、これからの女性は70歳までの基礎の繰り下げが必須になっていくと思います」

 こう話すのは、社会保険労務士でFPの井戸美枝さんだ。自分と夫のそれぞれの両親をみとった経験から、夫に先立たれて妻が一人残される可能性が大きいことを、その理由に挙げる。

「いまの60歳前後の女性は、半数が90歳まで生きます。一方、夫は80代前半で死亡する人が多い。年齢差にもよりますが、10年ぐらいは『おひとりさま』になると思っておいたほうがいい」

 おひとりさまになると、年金はたいてい、夫の遺族年金(夫の厚生=65歳時でもらえる金額=の4分の3)と自分の基礎が中心になる。妻が繰り下げしていなければ年間の年金額は、夫aだと168万円(遺族年金+妻の基礎78万円)だが、妻が繰り下げしていると200万円(遺族+妻110万円)だ。

「月3万円弱の違いですが、高齢になるほどその3万円の価値が大きくなるんです」

 普段の生活に余裕が出るだけでなく、とくに「介護」を受けるときに威力を発揮するという。

「お金が余分にあれば、介護保険で受けられる分に上乗せしてサービスを受けられますし、ちょっとした外出にタクシーを使うこともできます。高齢になるとほぼ介護状態になるため、自分の介護を考えても女性は繰り下げておいたほうがいい」

 専業主婦世代は厚生が少額なので、なおさら“主力”の基礎繰り下げが年金を増やすカギになる。

 どうやら、妻の基礎繰り下げは必須になっていきそうだ。とすると、夫婦の年金戦略は次の三つに絞られる。

【戦略1】 夫は基礎・厚生の両方、妻は基礎を繰り下げる
【戦略2】 夫も妻も基礎のみを繰り下げる
【戦略3】 夫は厚生を、妻は基礎を繰り下げる

 夫が何を繰り下げるか。基礎と厚生の両方なのか、そのいずれかなのか、で戦略が変わってくるのだ。

【戦略1】は60代後半の年金収入が妻の厚生のみになる。したがって夫、あるいは夫婦2人で働いて生活費を賄えることが条件になる。夫が会社員時代に専門職で、65歳以降も培った技術やノウハウを生かして安定した収入が得られる場合などが最適だ。

 実現できれば“最強のリタイア家計”が作れる。何しろ「標準」のa夫婦でも、3年程度繰り下げたころから2人の年金額が月30万円を超えてくる。年金だけで生活費が賄える水準だ。

【戦略2】は夫と妻の厚生を、【戦略3】は夫の基礎と妻の厚生を、それぞれ受給しながら繰り下げ待機をするケースだ。このため、a夫婦は月に「7万5千〜11万円」、b夫婦は「7万5千〜16万円」の年金収入がある。

 もちろんそれでは足りず、この場合も夫婦で働くことになる。むしろ労働収入しだいで、どちらの戦略を選ぶかを決めることになると言ってもいい。ちなみに、収入が下がらない生活を望んでいた冒頭のAさん夫婦は、【戦略3】を実践している。澤木氏が指摘する。

「皆さん仕事がないとおっしゃるが、月10万円ほどのアルバイト的な仕事はいっぱいあります。大企業の元社員はプライドを捨てられるかどうかがカギになる。夫婦でバイトすれば乗り切れる金額です」

 十分な貯蓄があるなら、60代後半は貯蓄を取り崩して対応する手もある。貯蓄は減ってしまうが、70歳以降に定期的な収入(年金)をぐっと増やせる。

 もう一つ、夫婦の年金戦略で考えなければならないことがある。夫婦の「年齢差」だ。

 FPの太矢香苗さんは昨年、夫が60歳の定年を迎えた。退職金を一時金と企業年金にどう振り向けるかなどを話し合った。5年先のことだが、夫の厚生は「絶対に繰り下げさせない」つもりだ。

「私は夫より8歳年下。実はそれだけで、年金額が約310万円も増えるんです。そんな機会を失うわけにはいきませんから」


 太矢さんが話しているのは、年金制度の「配偶者手当」と呼ばれる「加給年金」(以下、加給)のことだ。65歳以上の夫が20年以上、厚生年金に加入していて、65歳未満の妻と生計維持関係にあれば受給できる。20年度の年額は「39万900円」で、妻が65歳になるまでもらえる。

 月3万円を超すから、確かに大きい。だが当然、繰り下げ待機中は加給は出ない。

“年上女房”の場合は何も考えなくても済むが、いまの50〜60代は夫が2〜4歳年上のケースが多い。繰り下げか加給か、どちらかの選択となるのだ。太矢さんが言う。

「5歳以上は文句なく加給を選ぶのが正解だと思いますが、それ以下は微妙ですね」

 いったい何歳差までなら繰り下げを選んでもいいのだろうか。加給は厚生から支給されるため、厚生に絞って見てみよう。

 5年繰り下げた場合、累計年金額が繰り下げない人に追いつくには約11年かかる。それに、本来ならもらえた加給分が加わる。澤木氏によると、もらえなくなる加給の総額を、年間の年金増加額で割ると損益分岐点が延びる期間がわかるという。

「夫aのように5年繰り下げで厚生が約50万円増える場合は、5〜4歳差だとあと4年、つまり85歳まで生きれば損しません。3歳差だと83歳、2〜1歳差だと82歳まで長生きすればいい計算になります」

 その年数をどう見るかだが、それには個人差もありそうだ。ただし、年金額が高いほど繰り下げで増える金額も大きくなるため、追いつくのが早くなることは覚えておいたほうがいい。夫bだと5年で年間約76万円増えるため、5歳差でも3年足らずで追いつける。

 また、【戦略2】なら、繰り下げながら加給ももらえることをつけ加えておく。

 個々の家計で状況はさまざまに違う。今回取り上げたポイントをよく考えて、夫婦の年金戦略を練ってほしい。(本誌・首藤由之)

※週刊朝日  2021年1月22日号