2006年に京都大学の山中伸弥医師らが世界で初めて作製に成功した、iPS細胞(人工多能性幹細胞)。山中医師が12年にノーベル医学生理学賞を受賞し、その名は世界中に知られることになった。



 日本から生まれた新しい医療技術に、各方面から大きな期待が寄せられた。13年度から10年間の計画で再生医療に対して約1100億円もの国費の投入が決まり、その多くがiPS細胞の再生医療に注がれ、現在に至っている。日本で「再生医療といえばiPS細胞」というイメージを持つ人は少なくないだろう。

 iPS細胞を使った再生医療は今、どうなっているのか。この記事では、その“現在地”を伝えていきたい。

 はじめにiPS細胞について解説しよう。iPS細胞は、皮膚や血液などの体細胞からつくり出すもので、その名のとおり「人工的につくられた多能性幹細胞」である。多能性とは、受精卵が胚盤胞という段階を経て胎児になり、耳や口などの各器官をつくって成長していくように、さまざまな組織の細胞に変化できる能力を示す。この変化を分化という。あらゆる組織や臓器を再生できる可能性があるのだ。

 山中医師は、人の細胞がそうやって多能性のある細胞に“初期化”できると発見したからこそ、ノーベル賞を受賞することとなった。その多能性に加えて、体細胞に少数の因子を導入して遺伝子を操作し、培養することでほぼ無限に増殖する能力を併せ持つのが、多能性幹細胞だ。

 iPS細胞は、患者本人の体細胞からも他人の体細胞からもつくることができる。患者本人の体細胞からつくれば移植後の拒絶反応が小さいメリットがあるが、コストや時間がかかってしまうデメリットもある。一方で他人の体細胞からつくれば備蓄が可能で、比較的早期に患者のもとへ届けることができるが、移植後に拒絶反応を起こさないよう免疫抑制剤の使用などの工夫が必要になる。

 山中医師が所長を務める京都大学iPS細胞研究所は、iPS細胞バンクとも呼べる「再生医療用iPS細胞ストックプロジェクト」に力を入れている。患者本人の体細胞からつくるiPS細胞は膨大なコストと時間がかかるため、つくられたバンクだ。健康なボランティアの血液からつくったiPS細胞を保管して、さまざまな研究機関の臨床研究にiPS細胞を提供している。ここでは、拒絶反応を起こしにくい特殊な白血球の型(HLA型)を持つ人のiPS細胞が備蓄されている。

 現在、あらゆる組織や病気において、iPS細胞を使った再生医療の研究が進められている。これらが成功したあかつきには、現在、治療法がない難病などに対して再生した細胞を移植することで治療し、患者を救うことができると期待される。

 例えばパーキンソン病は、薬物療法やデバイス補助療法、リハビリテーションなどが一般的な治療法で、症状の改善は期待できるが根本的に治すことはできない。また関節軟骨損傷は、関節内注射や装具などの保存療法、手術療法などが一般的な治療法だ。保存療法は根本的に治すものではなく、手術は大きな損傷に対応できず、痛みが再発する場合もある。ほかにPRP(多血小板血漿)療法やAPS療法という再生医療はあるが、痛みを抑制できる期間は限られ、根治を目指すものではない。こうした病気に対して、神経細胞や関節軟骨そのものを再生させることで根治を目指すのが、iPS細胞を使った再生医療だ。

 実用化されたものはまだないが、臨床研究として患者に実際に移植されたケースは多く、「ここまで進んでいるのか」と実感できる。

「iPS細胞の再生医療の臨床研究は世界中で実施されていますが、その半分以上が日本でおこなわれています。これだけ実績が出ているので、決して進んでいないわけではないのです」

 そう話すのは、日本再生医療学会の副理事長であり、iPS細胞を使った再生医療研究を進める慶応義塾大学教授の岡野栄之医師。岡野医師が自ら進めている脊髄損傷の臨床研究は、19年2月に厚生労働省に承認された後、準備を進め、まもなく移植ができる段階にまでなった。損傷後2〜4週間の亜急性期の完全麻痺の患者を対象にしている。本来は20年12月から移植の治験対象者を募集する予定だったが、新型コロナウイルスによる同病院の医療体制の影響から延期されている。

 またiPS細胞は、移植による再生医療のほか、難病の治療薬を探す研究や創薬の研究、病気のモデルの作製でも期待される。例えば岡野医師は、神経からの命令を筋肉に伝える運動神経細胞が死滅してしまうALS(筋萎縮性側索硬化症)の候補薬の研究も進めている。

「ALSはこれまで適切な病態モデルがなく研究がむずかしかったのですが、iPS細胞を使って症状を見事に再現できる手法を開発できました。再現できれば、何らかの病気を起こす遺伝子の異常を見つけやすくなります。最適な候補薬として同定したのはロピニロール塩酸塩といい、脊髄まで到達し、神経が広範囲に変性している状態の改善が期待できる飲み薬です。完全に治せるわけではないのですが、悪化速度を遅くできると期待しています」(岡野医師)

 18年12月から20人に治験が実施され、今後患者への適用が期待されている。さらに岡野医師らは、難度が高いアルツハイマー病を標的にした研究も進めている。(小久保よしの)

※週刊朝日  2021年2月26日号より抜粋