元朝日新聞記者でアフロヘア−がトレードマーの稲垣えみ子さんが「AERA」で連載する「アフロ画報」をお届けします。50歳を過ぎ、思い切って早期退職。新たな生活へと飛び出した日々に起こる出来事から、人とのふれあい、思い出などをつづります。



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 家売却で使わぬものを処分する体験を通じてもう一つ印象に残ったのが、人様にもらって頂けるものと、そうでないものの境目は一体どこにあるのかということである。

 ちなみに使わないのに捨てられないモノの代表格が「高かった」「まだほとんど使ってない」というやつだ。しかしこういうのに限って、大事に取っておいたところで結局死ぬまで使わない。なぜなら「ほとんど使ってない」のはそもそも使う必要がないからで、「高かった」のに使わないのはよほど必要ないという証拠である(←実話)。

 じゃあ思い切って誰かに差し上げようと決意したとして、果たしてうまくいくだろうか。私の体験では、それもまた難しかったのだ。何しろモノが溢れまくっている時代、皆必要なものはだいたい持っている。モノとは欲しいタイミングで欲しいものがやってきて初めて意味があるのであり、高価でも新品でも欲しくないタイミングで欲しくないものが来たら迷惑なだけだ(これを回避する仕組みがメルカリなんだろうが、それについては別の機会に書く)。

 結局、私が自信を持って人様に差し上げることができたのは「昔のもの」と「手作りのもの」だった。つまりはお金で買えないもの。たとえ高価でも大量生産品は線引きから漏れたのである。

 最後、無造作にゴミとしてトラックに積まれた寂しげな物たちを見て涙が出た。

 我らは当たり前のように大量生産品を買い生活しているわけだが、それは現代においては買った瞬間からゴミになる運命なのだ。私は唖然とした。物たちをゴミにしてしまったのは私の欲である。私はそんな暮らしを望んでいたのか。そんな暮らしのために、歯を食いしばって貴重な人生の時間を使い、懸命にお金を稼いできたのだろうか。

 これはある種の目覚めであった。そうか。これからはこう考えてはどうだろう。何かが欲しくなった時、我が死後も誰かが引き継いでくれるかどうかを考える。もしかすると無駄金を使わぬことが暮らしを整えるのだ。

稲垣えみ子(いながき・えみこ)/1965年生まれ。元朝日新聞記者。超節電生活。近著2冊『アフロえみ子の四季の食卓』(マガジンハウス)、『人生はどこでもドア リヨンの14日間』(東洋経済新報社)を刊行

※AERA 2021年3月29日号