日本が近代化に向けて大きく動き出した明治時代。明治国家の「建国の父祖」として君臨していたのが明治天皇である。週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 15』では、その明治天皇を特集。大日本帝国憲法の発布や日清・日露戦争の勝利など、西欧列強に負けない国家をけん引する役割を担った人物の真実とは――。



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 鳥羽・伏見の戦いが終わったばかりの明治元年(慶応四、1868)一月二十三日、大久保利通は遷都論を提出した。都を大阪に移すという意見である。戦乱の最中になぜ大久保は都を移せというのか。

 大久保は言う。「一天の主と申し奉るものは斯く迄に有難きもの、下蒼生(人びと)といえるものは斯く迄に頼もしきもの」と上下が一致して感動する改革が必要である、しかし天皇は「玉廉の内に在し」ている現状では「民の父母たる天賦の御職掌に乖戻」する(天皇は国民の父母であるという天から授かった職務に違犯している)。そこで、仁徳天皇や外国の君主のように国中を訪ね万民を慈しみ育てる必要がある、そこで遷都をしなければならない、と主張した。

 新政府の天皇は公家に囲まれて国民と接触のない天皇であってはいけない、国民に有り難いと思って貰う天皇でなければならない。そのための遷都であった。

 大久保の唱える天皇像はそれまでの天子像と異なっていた。江戸時代の天皇はどのような存在であったのだろうか。 江戸時代御所は、さらには天皇までも禁裏と呼ばれた。みだりに近づいてはいけないという意味である。文久三年(1863)三月、孝明天皇が攘夷祈願のために賀茂神社に行幸したが、天皇の正式な外出はおよそ230年ぶりであった。天皇は皇居に隠されていた。

 他の像もあった。

 国学の大成者本居宣長は、京都留学中の宝暦六年(1756)、公家の参内姿を見て感動している。上の百官参賀の絵のように、公家が束帯で参内する姿は見物することができた。宣長は、公家の装束に古代の姿を確認した。つまり天皇・朝廷は、王朝文化が継続する雅と文の世界であった。睦仁(明治天皇)も、天皇の基礎的教養である和歌を、父孝明天皇から教わっている。

 ところが、尊王攘夷の出発点であった水戸学の天皇像は異なっていた。将軍が天皇を敬って人心の統一を図り強国を目指すという考えであった。こうした考えを受け継いだ幕末の活動家(志士)は、天皇を中心とした列強に負けない国家建設を目標とした。天皇が政治を行い、やがては軍も率いることが目指された。日米修好通商条約問題で、孝明天皇は条約締結を許さないという政治的意思を明らかにし、政治的主体となった。そして攘夷を唱える以上、軍事力と無縁ではいられない。文久三年七月三十日、御所門外で軍事訓練が行われた。睦仁親王も孝明天皇の側で訓練を観覧している。

 先に述べた賀茂行幸も、攘夷という政治課題の実現を祈るためであった。ついで武神・石清水八幡宮への行幸となり、やがては神武天皇陵に祈り、攘夷の親征を宣言する大和行幸の企画となった。大和行幸は中止となったが、天皇は軍を率いる存在となることが目指されていた。

 王政復古の大号令を経て鳥羽伏見の戦いに勝利して新国家建設が始まったとき、大久保たちは天皇を中心とする国家を目指した。

 その天皇は、隠された文と雅の天皇ではなく、政(まつりごと)と軍(いくさ)の中心にいる天皇であった。公家と女官が占める京都御所から物理的に天皇を離すために、大阪遷都は企画された。とはいえ公家を中心に反対は大きい。とりあえず政庁(太政官代)が二条「城」に置かれて明治天皇は出勤することになる。

 大久保をはじめとする維新官僚は屈しない。九月、明治天皇は京都を出発し、人びとに姿を見せながら翌月江戸城(東京城)に入る。人びとに姿を見せ、政治と軍事を担う天皇の出発である。

◎監修・文
西川 誠/1962年、京都府生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専攻は日本近代政治史。現在、川村学園女子大学教授。著書に『明治天皇の大日本帝国』(講談社)、共著に『日本立憲政治の形成と変質』(吉川弘文館)など。