10年以上前に絶縁した父が末期ガンだと連絡をうけ、動揺する33歳女性。自分の書く小説に父を反映させたいが、過去の辛い記憶が蘇るのではと躊躇する相談者に、鴻上尚史が指摘する、傷つかずに「真実の感情」に迫ることが両立しない理由とは。

【153相談】10年以上前に絶縁した父が末期ガンだと連絡を受けました(33歳 女性 おみお)

 鴻上さん、はじめまして。

 私はモラハラ、暴言、借金、アルコール中毒などの問題を抱えた父と10年以上前に絶縁し、今まで無関係に過ごしてきました。ですがこの度、末期ガンだという連絡を受け、会いに行くかどうかを悩んでいます。

 というのも私は、仕事で文章を書きながら趣味で小説を執筆しておりまして、父が死を目前に何を思っているのかを「取材」し、あわよくば自分の作品に反映させたいのです(散々な目にあってきたのだから、作品のネタにくらいさせてもらわないと割に合わない、という思いもあったり……)。

 ですが、かつて父には幾度となく傷つけられ、立ち直るのに時間を要してきました。また同じことになるのでは、という不安もあります。

 自分の心を守りつつ、毒親を客観的に「取材する」心得がありましたら、ぜひご教示ください。

【鴻上さんの答え】
 おみおさん。大変な目にあいましたね。おみおさんの書く、「散々な目にあってきたのだから、作品のネタにくらいさせてもらわないと割に合わない、という思いもあったり……」という気持ち、分かりますよ。

 特に、文章を生業にしていて、なおかつ小説を書くのが趣味な人なら、そう思うのは自然なことだと思います。

 でね、おみおさん。おみおさんは、父親を客観的に「取材」して、どんな小説(作品)を書きたいですか?

 父親とは関係のない作品に末期ガンで亡くなる人物を登場させるための取材ですか?

 それとも、毒親だった父親が最後にどんな言葉を言うかを記録した発言集ですか?

 それとも、末期ガンの人の一般的なレポートですか?

 それとも最期を迎える毒親に関する軽いエッセー風の読み物ですか?

 おみおさんも文章を書いているのなら、分かると思いますが、取材もいろいろあります。

 ただ相手の話を黙ってきき、想定外の質問はせず、相手の言葉を録音して終了という取材もあれば、質問を連発し、相手の心の奥深くまで飛び込み、相手と取っ組み合いながら、相手の真実を引き出す取材もあります。

 すべては、どんな文章を書くかで決まってくると思います。

 もし、おみおさんが、父親と深く関わらず、「軽い読み物」としての作品を書くための「取材」だったら、おみおさんが深く傷つくことを避ける方法はあると思います。

 ICレコーダーかスマホを父親の前にポンッと置いて、相手が何を言おうが決めた質問を続けるのです。

「今の気持ちは?」「末期ガンになったことをどう思う?」「娘にインタビューされる気持ちは?」。父親が何を言っても、父親の言葉に関心を持ってはいけません。反論するとか、否定するなんてもってのほかです。ただ、黙々と質問を続けるのです。

 それでも難しいようなら、ICレコーダーを置いて、質問の紙を渡し、その場から去る、という方法もあるでしょう。「これに、答えを吹き込んでおいて」と頼むのです。

 ただし、こういう「取材」で得られる情報は、残酷なようですが、「読者にとってあまり面白いものではない」ということは、文章を生業にしているおみおさんなら分かると思います。

 俳優やタレントさんへのインタビューで、公式コメントだけを並べて終わらせたものがあります。発言をただそのまま書き写した文章です。それは、面白いものではありません。

 でもまれに、相手に肉薄し、公式コメントの裏側にある真実の感情を感じるインタビューがあります。こちらの方が圧倒的に面白いのです。

 新製品のマニュアルとか料理のレシピ、お店の開店情報なんてのは、相手の懐に飛び込まなくても、一般的な「取材」で書けると思います(もちろん、飛び込むことでもっと面白くなる可能性はありますが)。

 おみおさん。もし、おみおさんが、「私が書きたいのは軽い作品ではない。私と父親の人生を正面から描いたものなんだ」と思ったとしたら、「自分の心を守りつつ、毒親を客観的に『取材する』心得」は、残念ながら、ないと思います。

「父が死を目前に何を思っているのか」を知るためには、「相手の懐」に飛び込むしかないでしょう。そうしないと相手も本当のことは話してくれないと思います。

 でもそれは、おみおさんが自分の心と向き合うことでもあります。

 自分の心に正直だからこそ、自然に質問が浮かびます。父親の言葉に対しての疑問も浮かびます。もっと聞きたいことも浮かびます。でもそれは、間違いなく、おみおさんの苦しかった日々を思い起こさせることになると思います。

 本当に残念ですが、人生の真実を描いた小説は無傷で書くことはできないのです。

 小説が感動的かどうかと、作者が小説を書くためにどれぐらい傷ついたかは、密接な関係があると僕は思っています。

 相手のことを書くことは、じつは自分をさらけ出すことであり、相手を見つめることは自分を見つめることです。

 そうしなければ、感動的な小説は書けないと僕は思っているのです。

 おみおさん。僕がおみおさんの相談に回答したいと思ったのは、何度も書くようにおみおさんが「仕事で文章を書きながら趣味で小説を執筆」しているからです。

 文章を生業としている人なら、自分の書いた小説が一冊の本となり、一定の読者を獲得することを夢見るでしょう。それはしごく当然な希望だと思います。

 ただ、読者の反応は、「軽い毒親レポート風小説」よりは「自分にとって父親とはなんだったのか?」に焦点を当てた小説の方が間違いなく大きいだろう、ということを理解してもらえると思います。

 誤解しないでくださいね。だから、そういう小説を書けと言っているのではないですよ。

 僕は2年前に母親を亡くしました。その前の年に父親を亡くしました。毒親ではありませんでしたが、二人のことを書きたいなと思いながら、なかなか、筆が進みませんでした。衝撃が大きくて、作品として成立させられなかったのです。

 ようやく、母親が死んで1年半後に、僕は小説を書き上げることができました。それだけの時間が、僕には絶対に必要だったのです。

 おみおさんもやがて、父親のことを正面から書きたいと思う日が来るかもしれません。もちろん、その書き方はいろいろです。私小説風ではなく、まったく違う物語、例えばファンタジーの設定で父親的な登場人物が現れるとか、推理小説の登場人物として描く、なんてこともあるかもしれません。

 でも、今はおみおさんと父親の物語として描くのは、とても難しいんじゃないかと僕は思います。父親に対する感情に振り回されている時には、ちゃんとした小説は書けないでしょう。

 もちろん、どこにも発表するつもりはない。ただ、父親の最期を他人の目で軽く描写したいんだ、というなら話は別です。

 どちらのタイプの小説を選ぶかは、どれぐらいおみおさんが「小説を書くこと」にこだわっているのかで決まると思います。昔風の言い方をしたら、「小説を書くことに命をかけているかどうか」です。

 小説に命をかけてないのなら、真正面から父親との関係を描く小説を目指す必要はありません。

 それは、どちらが正しいとか間違っているという話ではありません。プロのサッカー選手になろうとする人と、サッカーを純粋に楽しみたいという人の違いです。どちらが正しいなんてないでしょう。

 最後に父親に会いに行った方がいいのか、最後まで会わない方がいいのか、それも僕には分かりません。

 これもどちらが正しいとか間違っているということではないと思います。

 おみおさん。これが僕のアドバイスですが、どうですか?

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