徳川家康が主人公の大河ドラマ、織田信長と妻・帰蝶を描いた映画──。いま、戦国時代に注目が集まっている。家康に信長、豊臣秀吉を入れた「三英傑」は、どんな人だったのか。現代社会に生きる私たちが学ぶべきポイントはあるか。専門家に聞いた。AERA 2023年1月23日号から。
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人を動かすことの本質はいつの時代も変わらない。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康──。「乱世」を駆け抜けた三英傑から、私たちは何を学びとることができるのか。
まず、信長。カリスマ的革命児として戦国屈指の人気で、「上司にしたい戦国武将」といったテーマでも常に名が挙がる。
戦国時代に詳しく、ユーチューブで「戦国・小和田チャンネル」を配信している静岡大学名誉教授の小和田哲男氏は、信長の特筆すべき長所は「人を見る目」「埋もれた才能に気づく点」だと話す。
「秀吉は話し上手でした。そのことに気づき、戦略に使ったのが信長です。信長は美濃の斎藤龍興と戦っている時、秀吉に龍興の家臣の寝返り工作を命じます。秀吉は敵武将を巧みに誘い、次々と寝返らせていきます。部下の才能に気づき、能力本位の人事配置を行う。リーダーとしての大いに学べる点です」
歴史作家の河合敦氏は、信長の「素早い決断力」は学ぶべき資質だと言う。
「真骨頂は、今川義元の大軍と戦った1560年の桶狭間の戦いでの決断です。清洲城にいた信長は、義元が桶狭間にいると知ると、突如、出陣を命じ自らも馬に乗り、義元の本陣に攻め入り勝利を手に入れています。大きな事を即断できるのは、リーダーとして有能な資質です」
信長は新しいものが好きだったこともあり、現代なら、ベンチャー企業の社長になっていたかもしれない。
■過去の失敗に学ぶ
秀吉はどうか。秀吉と言えば「人たらし」で有名で、陽気な性格から誰からも愛されたという。今も大阪では、「太閤さん」の愛称で親しまれている。
小和田氏は秀吉の特筆すべき性質に、「過去の失敗に学ぶ点」を挙げる。
「城攻めを例に取ると、秀吉は1578年に播磨国の三木城を攻めますが、攻め落とすまで1年10カ月かかっています」
攻略に2年近く要したのは、三木城内に兵糧米が潤沢にあったからだった。その反省を踏まえ1581年、因幡国(いなばのくに)の鳥取城攻めでは、まず補給路を断ち、徹底した兵糧攻めによって80日で城を落とした。
「過去の失敗の経験を次に生かすのは、リーダーとして重要な資質です」(小和田氏)
河合氏は、秀吉は能力が高いだけでなく、「目配りできる点」も学べるところがあるという。
「秀吉は『人たらし』といわれるように人心掌握に長けています。例えば直江兼続は、秀吉が伏見城の築城現場に自ら赴き、作業員一人一人に声をかけていたという手紙を書いており、彼の人使いのうまさがわかります」
秀吉は現代でいえば、子会社社員から大企業の社長までのぼり詰めた苦労人といえるだろう。
そして、家康。三英傑の中で派手さには欠けるものの、天下を統一し、約260年にわたる江戸幕府の礎を築き、「理想の上司」として高い人気を誇る。
■決めた方針は翻さない
そんな家康について小和田氏は、「根回し上手だった」と言う。
それが顕著に表れたのが関ケ原の戦いだ。家康の東軍7万に対し、石田三成の西軍8万。家康が押され気味だった時、松尾山にいた小早川秀秋が率いる1万5千の軍が突然、家康に寝返った。形勢は一気に逆転し、家康の勝利に終わった。
「家康は、小早川秀秋が寝返るという確信を持っていました。家康は全国の武将を味方に引き入れるべく、西軍の大名らに『自分に味方してくれたら領地を保証する』という手紙を160通近く書いて、周到な根回しをしていたのです」(小和田氏)
河合氏は、家康は「ぶれない点」が優れていると話す。
「家康は一旦決めた方針は絶対に翻さず、自分を裏切ったものは許しません」
例えば、一向宗の門徒が起こした三河一向一揆(1563〜64年)では信仰を選び自分を裏切った家臣は原則全て追放し、関ケ原の戦いでも敵に回った西軍の88家もの大名の領地も屋敷も全て没収するなど、厳しい処分を下している。
「ぶれずに大胆な決断をすることは、リーダーに求められる条件です」(河合氏)
家康は確固たる方針のもと、法制度を定め長期政権を樹立したので、財閥の創業者に向いていると思うという。
ここまで三英傑に学ぶ点を見てきた。では、この3人をリーダーとして採点すると何点か? 歴史学者で東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏に聞いた。
「信長は、農民出身の秀吉を登用するなど、才能のある人材を抜擢していきます。この点は評価できますが、半面、父の信秀の代からの家臣で筆頭家老でもあった林秀貞を使えないとみるや追放するなどしています。自分の感情で部下を評価する上司は、最低です」(本郷氏)
信長の上司としての評価は、5点満点で最低の「1点」だ。
秀吉は「3点」で、「トンデモ人事を行う点がマイナスです」(本郷氏)
会津を治めていた蒲生氏郷が死んだ時、秀吉は、嫡男の秀行がまだ幼いという理由で92万石から宇都宮18万石に削った。幼い子どもに領地を預けるわけにはいかないという秀吉なりの理由はあったが、そこまでするかという点がマイナスだという。
家康は「4点」。ケチなところがあるからだ。
「関ケ原の戦いで勝利した家康は、自分に味方した東軍の大名たちに論功行賞を行います。天下を取ったのですから、本来であれば、味方についた全員の所領を加増してもいいはず。けれど、戦いに遅れた榊原康政はご褒美ゼロでした」(同)
現代社会では情報の取り扱いも重要だ。SNS時代、情報は瞬時に広がり、誰もが意図せず情報戦の渦中にいる。情報管理においても、三英傑に学ぶヒントがありそうだ。
小和田氏によれば、信長は「情報の扱いに秀でていた」。なかでも注目するのが、今川義元と戦った桶狭間の戦いだ。
「信長は総勢2万5千人もの今川軍を、わずか2千の兵で破ります。これは情報戦の勝利です」
今川軍は戦いの前夜に沓掛城(くつかけじょう)に入り、出陣する。その様子を観察し、信長に情報を届けたのが簗田(やなだ)政綱という信長の家臣だった。その結果、信長は今川軍に圧勝し尾張の小大名から急速に勢力を拡大していく。この戦いで信長が戦功第1位として賞したのは、義元の首を取り武功を挙げた毛利新介という家臣ではなく、情報をもたらした簗田政綱だった。
「武功より情報のほうが大切だということを、信長は知っていたのです。信長のすごいところです」(小和田氏)
河合氏は、秀吉を「情報の扱いがうまい」と評する。
秀吉は本能寺で信長が明智光秀に殺された3日後、中川清秀という武将に「信長・信忠父子は無事」などと書いた書状を送っている。清秀は光秀に近しい人物だった。河合氏は言う。
「そんな人物にどうして、誤報を伝えたのか。私は、秀吉はあえて偽の情報を流すことによって清秀などの部将たちを味方に引き入れようと考えたのだと思います。実際、秀吉が光秀を討つ山崎の戦いで、清秀は急先鋒となって光秀と戦っています」
■情報管理とコミュ力
情報管理について本郷氏は三英傑をこう評価する。
「信長は情報の重要性をよく知っています。だが一方で、妹婿である浅井長政の裏切りに気づかず、九死に一生を得ます。そして最後は明智光秀の裏切りにあって殺される。これは、情報を集めてコミュニケーションが取れていなかったという見方もできるので、『3点』です」
秀吉は「2点」。点数が低い原因は、朝鮮出兵にある。秀吉は晩年、2度にわたり朝鮮に侵攻するが、結果的に何ら得るものがなく、豊臣政権の基盤は揺らぐ。朝鮮の民衆や明軍の力を過小評価し、情報が全く取れていなかったことも原因にあると考えられるためだという。
家康は、「5点」だ。
「関ケ原の戦いで徹底的な手紙作戦を行います。その結果、西軍の総大将だった毛利輝元は大坂城から動かず、小早川秀秋に至っては西軍を裏切っています。情報を上手に使い、見事な勝利を得たので満点です」
最後に多様性への理解という点で三英傑はどうか尋ねた。
河合氏は、三英傑は比較的身分にこだわりがなかったと見る。
「特に家康は、僧侶の天海や儒者の林羅山、軽輩の大久保長安など、有能なら身分にかかわらず側近に取り立てており、偏見は少なかったと思います」
本郷氏は、こう話す。
「信長は弥助という、宣教師が連れてきた黒人を織田家に登用し、家康はウィリアム・アダムスという英国人航海士を外交顧問に取り立てるなど多様性が高い面があります。一方で、信長は一向宗の門徒を大量に虐殺し、比叡山を焼き討ちします。秀吉はキリスト教を禁止し、家康は徹底的に弾圧します。そういう点から、全員『2点』です」
歴史を学ぶのは、昔を知るためではない。今を生きる指針を得るためだ。時代を大きく変えた三英傑に学ぶのは、先の見えない時代を生きる私たちの、必ず大きな力となる。(編集部・野村昌二)
※AERA 2023年1月23日号より抜粋