大河ドラマ「どうする家康」で時代考証を担当している歴史家の平山優さんと、当代きってのお城の研究家である千田嘉博さん。旧知の二人が「あのお城にはこんな秘密が」「あの地にお城があるのはこんな理由が……」などなど、武将の魅力から最新の研究まで、熱く語り合った。
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千田:平山先生は武田氏研究会の副会長もお務めです。武田といえば躑躅(つつじ)ケ崎の武田の館(甲府市)はなるほどと思う場所にありますね。
平山:躑躅ケ崎は小松の庄があったところで非常にいい土地でした。甲府は水害が多い地帯だったのですが、あの場所は現在の防災マップを見ても水害や土砂崩れの指定がなく、とても安定しています。そういう意味でもいい場所なのです。ただ、信長や家康は本拠地を移していくのですが、武田はできなかった。というのは甲斐の守護という伝統的な家なので、簡単には移せない。
千田:それは新興勢力と大企業の違いですね。
平山:武田の場合、城を移転したら反乱が起きました。1回目は(武田信玄の父)信虎が甲府に移したとき。2回目に新府に移したら武田は滅亡しました。
──城と聞いて大坂城や姫路城を思い浮かべたのでは、身近な城を見落としてしまう。江戸時代には大名だけが城を築いたが、中世には地域の武士も、村のお殿様も、寺社も、村や町の住民連合も、自分たちにふさわしい城を築いた。だから中世の城は、圧倒的に多かった一方で、まだ石垣も天守もない土づくりの城がほとんどだった。(千田嘉博著『歴史を読み解く城歩き』から)
平山:城が移転したら、城下の商人たちがどういう選択をするかですね。
千田:城が移転する際、信長の場合は特権を与えたんじゃないかと思います。たとえば安土では城下を楽市にし、そこに住んだらこれまでの借金は棒引きで新たな税金もかけない。するとみんな住みますよね。有力な町人とか、職人さんが来てくれるためには、思い切った特典を与えなければ行かなかったのではと思いますね。
平山:信長が城下を楽市にしたのは、近江から京都に通じる大動脈を、脇の安土に道をつけて引き込まなきゃいけなかったからなのです。
千田:はい。街道を付け替えちゃいました。かなり強引な信長のやり方ですね。また城のシンボルだった天主(天守)は、信長が安土城(滋賀県)で始めたと伝えられていましたが、最近の研究では安土城の前に、畿内では天主と呼ぶ特別な建物を城に建て始めていたとわかりました。だから天主は信長の発明というよりは、畿内に成立していた城の中心建物を信長が再定義して、より巨大化してできたと再評価できます。
平山:武田家の江尻城にも高楼がありました。それが武田の天主と言われるものだと思われます。城主は守りのために遠くを見つつ、権威を誇示するのでしょうね。
千田:シンボルとしては圧倒的ですね。
平山:当時は五重塔などの寺院建築以外に高い建物はないので、大名が高い建物で財力と権力を誇示する意味は大きいです。
■美を強く求めた信長の安土城
千田:城のつくりで言うと、安土城の瓦はオリジナルデザインで整えて金箔(きんぱく)を施していた。見えない細部まで美を尽くしたのは、信長の人柄が出ていると思います。一方、秀吉は安土城よりも大きな天守をつくったけど、大坂城の瓦のデザインはバラバラです。
平山:信長はこだわりがあったのでしょうね。安土城の瓦を焼いたのは、「唐人一観」と『信長公記』に出てくる中国から来たデザイナーなんですよ。
千田:安土城の発掘成果では、瓦は大和(現在の奈良県)の技術でつくったのが判明しているので、通常の瓦の製作に唐人一観が関わったのではなく、私は天主をはじめとした大棟の上にそびえた鯱の創造に関わったデザイナーが一観だったと考えています。そして、これまで家康には「ケチ」疑惑があって、信長や秀吉のような豪華絢爛(けんらん)な城はつくらなかったと言われてきましたが、近年の調査によると、家康も信長や秀吉に負けないすごい城をつくったと考えられます。
平山:名古屋城は家康がつくったものですからね。今は面影ないけど駿府城(静岡県)もそう。駿府城の天守って特殊ですよね。天守の周りに独立した天守曲輪を築いて囲っていたんですからね。
千田:そうそう。駿府城の慶長期天守台を静岡市は「日本最大の天守台」といっていますが、あれは間違いです。天守周辺を本丸より上位の独立空間とした天守曲輪と捉えなくてはいけません。さらに家康は武田信玄・勝頼の精緻な城づくりの要であった馬出しも、自分の城づくりに取り入れていきました。馬出しは出入り口前の堀の外側に反撃用の陣地を設けたもので、日本だけでなく世界の城に見られます。家康は宿敵・武田氏に学んで強い城をわがものにしました。ところで平山先生は、強いてあげればどこのお城が好きですか。
平山:高遠城(長野県)ですかね。武田の伊那支配の拠点のお城で、信長が「天下の名城」と呼んだ城です。それをわずか1日で息子の信忠が落としたのを褒めたたえるシーンが『信長公記』にあるのです。それだけ、信長も高遠城は簡単には攻め落とせないと思っていたようです。その城が江戸時代も使われ、今も中世城郭の面影を残したまま保存されているのですからね。
千田:桜の名所でもありますしね。私は中学1年のとき姫路城を遠望して城の研究を志しました。安土城にも感動しました。そのころの安土城は発掘や整備が進む前で、昼なお暗く木々の間に崩れた石垣が続いていました。信長が本能寺の変で、志半ばで倒れたことと、城跡の姿が重なるようで感慨深く思いました。
■発掘と研究で真の城を発見
千田:城は少しずつ埋まりながら遺跡として今日に伝えられています。だから調査が大切です。先日、「どうする家康」の初回に出てきた名古屋市の大高城の発掘成果が発表されました。名古屋市教育委員会による発掘の結果、本丸のまわりに幅10メートルを超え、深さは堀だけで4メートル、堀を掘った土を防御の土手(土塁)として本丸側に積んだとすると、合わせて深さ8メートルに達する強固な防御施設を、城将だった今川方の鵜殿長照がつくりあげていたのが、はじめて判明したのです。
平山:大高城が最前線でずっと落ちなかったのがよくわかりますね。
千田:信長側の善照寺砦などと比べて、今川義元の城の先進性が際立ちます。義元の名誉回復は進んでいますけど、城づくりの視点から見ても優れた武将でした。
平山:それに大高城は尾張の国境地帯の城としては圧倒的に大きい。現存している今川の城の中でも、ピカイチだと思いますよ。
千田:さらに発掘の結果、どうやら桶狭間の戦いからほどなくして、大高城のすごい堀は埋められているんです。
平山:信長にとっては軍事拠点として再利用する必要性がなくなりましたしね。
千田:今川の城が当時のまま遺跡になっているのはすごい。
平山:駿河などに残る今川の城のほとんどは、今川氏滅亡後、駿河・遠江の城には武田が入って相当、手を入れているんですよね。だから今川の城はよくわからないんです。さらに徳川が入って家康が改修するので、どこまでが今川でどこからが武田って、なかなか難しいですよね。
千田:大高城は信長との戦いの最前線中の最前線で、技術を込めた一番よい城をつくったと思います。今川のお城を考えるには抜群だと思います。
平山:雨の日に長野県上田で調査をしていたことがあるんですよ。虚空蔵山城(長野県)をはじめとした山の上にずらっと村上氏が築いたといわれるお城があるのですが、雲が山の一定のラインよりも上にしか、かからないのを目撃しました。霧は葛尾城(同)から砥石城(同)までかかるそうです。地元の人は「下がり霧」って呼んでいるんです。
千田:へぇー!
平山:葛尾城には出城の姫城があるじゃないですか。それに虚空蔵山城にはすぐ下に飯綱城があり、そこには霧がかかりません。だからそこに城が必要なのですね。
千田:晴れの日だけ見ていてもわかりませんね。
平山:信州の城郭研究で著名な宮坂武男先生が「お城同士が会話をしているね」って言ったそうです。敵が見える下の城と霧で目視できない城が交信し合っているんですね。
千田:雨の日に行くと、晴れていたら気がつけない発見がありますね。
平山:城は今、雲海ブームですよね。
千田:竹田城(兵庫県)は霧が出るとき多くの人が訪れていますね。
平山:だけど雲に囲まれてしまったときに、竹田城はどういう守りをしていたんでしょうね。
千田:雲海が出たら山麓の敵の動きは何も見えない。竹田城は弱点まみれじゃないですか。竹田城を攻めるとしたら雲海の日がチャンスですね。でも、今はその弱点を強みに変えて人気の城になりましたね。
平山:僕は山梨県に住んでいますけど、都留郡には御前山と呼ばれるところがあって狼煙山と言われている。鐘撞堂山という山もあるんです。なぜ鐘撞堂山なのかなとか思ったら、城によっては鐘を鳴らし、太鼓で合図を送り返すという伝説が残っているんです。都留郡は川霧がすごい。狼煙じゃ見えないから鐘や太鼓で知らせるんですね。
(構成/本誌・鮎川哲也)
※週刊朝日 2023年3月17日号より抜粋
信長は瓦まで美を追求、家康は本当にケチ?…武将たちの城の秘密
千田嘉博(せんだよしひろ)写真左/ 1963年、愛知県生まれ。城郭考古学者。奈良大学卒業。奈良大学文学部文化財学科教授。2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の真田丸城郭考証を担当。平山 優(ひらやまゆう)/ 1964年、東京都生まれ。歴史学者。立教大学大学院文学研究科修了。専門は日本中世史。武田氏研究会副会長。2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当=撮影・小山幸佑