行商人にとっては、合戦も恰好のビジネスチャンスだったことだろう。画像出典:ColBase

 戦国時代は常に臨戦態勢だったとはいえ、大軍が戦場へと移動して、命をかけて戦うには、相応の準備が必要だった。出陣前の作戦会議にはじまり、兵の招集、人数の確認、出陣の儀式、兵站輸送、そして着陣まで。週刊朝日ムック『歴史道Vol.29 戦国時代の暮らしと作法』では、そんな「出陣の手順と作法」を特集。今回は、長期滞在に備え戦場で陣を設営する「着陣」について解説する。

 出陣した将兵は、野営を余儀なくされた。長期戦に備えて小屋を建てることもあれば、雨風を凌げそうな場所に寝床を求めることもあった。小屋といっても立派なものではなく、簡易的な掘っ建て小屋に過ぎない。

 野営で問題になるのが糞尿の始末である。始末が悪いと伝染病が蔓延する恐れがあるので、清潔を保つよう指示が徹底された。指定した場所以外で大小便をした者には、罰金を科された例すらあったという。

 陣中での楽しみといえば、食事であろう。あくまで合戦がメインなので、十分な食事を準備できたわけではないが、長期戦になると米は戦国大名から支給された。調味料は保存が利く味噌である。戦国末期になると鉄兜が普及。鍋ではなく兜をよく洗ってひっくり返して水を入れ、煮炊きをしたと考えられる。そのほか、現地で野生動物や魚を捕らえたり、野草を採取して口にしたりと推測される。

『大坂冬の陣図屏風』には、酒売りの姿を確認できる。いかに合戦中とはいえ、息抜きに酒を飲みたくなるのは今も昔も同じだろう。慶長十九・二十年(1614・15)の大坂の陣で諸大名が軍令を発布し、飲酒を禁止しているのが興味深い。酔っぱらっていては戦いに専念できなかったからである。また、戦国家法でも、飲酒の量を限っている例が見られる。『雑兵物語』によると、夜に合戦があると、米が余分に支給された。すると、酒好きな将兵はその米で酒を造ったという。当時の酒は清酒ではなく、濁り酒だった。

長期戦になれば、どこからともなく遊女たちが現れた。豊臣秀吉は公共の娼婦宿を設置したという。イラスト/さとうただし

 また、戦場に来た物売りは酒だけではない。大坂の陣の際に上杉氏が発布した軍令には、将兵が煙草を吸うことを禁じた規定がある。

 さらに、飲酒といえば博打である。博打は喧嘩の原因にもなるので平時から禁止されることもあった。大坂の陣では、土佐の山内氏が博打を禁止した軍令を発布した。裏を返すと、合戦の合間に博打を楽しみにしていた将兵もいたのだ。

 戦場には、〝戦陣女郎〟なる女性がいたという。つまり、遊女のことである。彼女たちは戦いに明け暮れる将兵を慰めるため、戦場にわざわざ来ていたと伝わっている。大坂冬の陣のとき、豊臣方として博労ヶ渕砦を守備していた薄田兼相は遊女と遊んでいて、不覚にも砦を徳川軍に奪われたというエピソードが残されている。

 このほか、文禄の役の際、朝鮮の唐島城に在陣していた島津義弘が、蹴鞠を楽しんだと伝わる。また、羽柴(豊臣)秀吉は、三木城(兵庫県三木市)を兵糧攻めにした際、茶会を催して余裕を見せつけた。吉川元春は尼子氏の居城・月山富田城(島根県安来市)を攻囲したとき、『太平記』を書写したという。戦場での楽しみは人それぞれだったようである。

※週刊朝日ムック『歴史道Vol.29戦国時代の暮らしと作法』から