ずっとキャプテンだったけど、実は先頭に立つタイプではない。舞台裏から楽しい場をつくっていきたい(撮影/小山真司)

 ラグビーW杯フランス大会が開幕した。ラグビーの隆盛を支えてきた一人が、HiRAKU代表取締役で元ラグビー日本代表キャプテンの廣瀬俊朗だ。2016年に引退。その後、MBAを取得し、自らの会社「HiRAKU」を立ち上げ、精力的に活動をしてきた。お金ではない。社会のため、誰かのために何かできないかを、常に考えている。廣瀬のキャプテンシーは今でも健在だ。

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「ワールドカップ(W杯)2023フランス大会」を直前に控えた8月、廣瀬俊朗(ひろせとしあき・41)は降ってくる仕事に忙殺されていた。

 現役を引退して7年、ラグビーの隆盛をひたすら願う廣瀬は、日本代表の壮行会、W杯がらみの大小イベント、テストマッチのテレビ解説といったスケジュールを詰め込み、応援サポーターとして全国を飛び回っていた。

 さかのぼること4年半──。

 自らの会社「HiRAKU」を立ち上げたばかりの2019年3月に舞い込んできた話もまた、廣瀬にとっては、ラグビー界のためにやらなければならない仕事だった。

 社会人ラグビーに材をとったテレビドラマ「ノーサイド・ゲーム」(TBS系)への出演である。依頼してきたのは、それまでも数々の話題作を世に送り出してきていた演出の福澤克雄。芝居経験ゼロの廣瀬は、悩みに悩んだ。

「ただ、何に悩んでいるかと考えてみたら、まるで知らない世界に対する怖さだった。あ、それはダメだ、ラグビー界に貢献できるようなお話をいただいて、ラグビーを知ってもらういい機会だし、とやらせてもらったんです」

 しかし、いざ現場に入ってみると、想像していたよりずっとセリフ量は多く、準主役級の扱いで出演シーンも少なくなかった。

「気を遣(つか)っていただいて、当初標準語だったセリフは関西弁に変えてもらったんですが、僕の関西弁は北大阪なので、ちょっと優しすぎるということで、まさかの南の大阪弁を練習することになったんです。とにかくひたすら状況をイメージしながら、車や電車の中でひとりぼそぼそとセリフを覚えてました」

■文武両道を目指して 合宿中も参考書は手放さず

 廣瀬が驚いたのは、放送後の反響だった。現役時代には何十何百という試合に出て、イベントにも参加してきたのに、たった1、2回のテレビドラマの放送だけで街行く人に声をかけられたりして、世間の認知度がまるで変わっていたのだ。

8月に東京都府中市で行われた商工まつりで、車いすラグビー体験イベントに参加。W杯前には、「GPSアート」という手法を使って日本全国を「エールカー」で回り、道中1万3千人のラグビーファンからエールを集めた(撮影/小山真司)

 この年、会社を始動させた廣瀬は、まずは「W杯2019」を日本でどう盛り上げていくかのPRに傾注しようとしていた。ついで、教育、食、スポーツを軸に事業展開していこうと漠然と考えていた。労苦はともなったものの、ドラマ出演は、これから事業を立ち上げて発信していこうというときに、大きなステップとなっていた。

 体育教師の父、音楽教師の母の勧めで廣瀬がラグビーを始めたのは、5歳のときだった。

「無理やりラグビースクールに連れて行かれたんで、最初は全然好きじゃなかった。でもそこは、あまり勝ち負けにこだわるスクールではなくて、友だちもできてだんだん楽しくなっていった」

 中学に上がると、ラグビー部に所属しつつ、休みの日にはスクールに通う日々が始まる。北野高校、慶応義塾大学理工学部機械工学科へと進んでからもラグビーを続けた。廣瀬は、そのいずれでも、周囲から推されてキャプテンを任されていた。

 慶應義塾體育會蹴球部(たいいくかいしゅうきゅうぶ)(慶応義塾大学ラグビー部)で同期だった北村誠一郎は廣瀬のプレーをこう評する。

「高校代表で初めて会ったときから、プレー中の判断力は抜群でした。身体は大きくないのにコンタクトはものすごく強かった。周りの状況もよく見て冷静にプレーしていた。大学4年でキャプテンになってからも、誰かを強く鼓舞したり、声を荒らげたりするのは見たことがない。ただ、たとえば、ケガ人が出て誰を補填するかというときなどには、迷うことなく即決していた。判断が速く、たぶん、その理由も明快だったんだと思う」

 廣瀬が中学時代から意識してきたのは、「文武両道」だ。勉強にもスポーツにも全力であたり、全うする。そのために、効率よく勉強時間を1日のうちにちりばめ、集中して打ち込んだ。北野高校から慶応に進むにあたっては、評定平均4.1以上が必要な指定校推薦枠を狙い、練習以外の時間はほぼ勉強時間に割いた。高校日本代表の合宿、海外遠征がある中でも、参考書は手放さなかった。

 大学卒業後は、ラグビーをやめて大学院で振動工学の研究室に入るつもりだった。

「ただ、引退試合で当たった関東学院がすごく強くて、めっちゃいい雰囲気だった。それは自分の味わったことのない世界で、もっとラグビーを知りたい、やりたいってなってしまったんです」

 廣瀬が選んだのは、東芝だった。

鎌倉・長谷寺近くにある廣瀬がオーナーの「カフェ スタンド ブロッサム」。「甘酒はすごい身体にいいんだけど、認知度が低くて。日本のいいものを世界に広めていくことも使命だと思っています」(撮影/小山真司)

「東芝ブレイブルーパスにはまだ慶応から誰も入っていなくて、僕が初めてというのも選んだ理由でした。合同練習で参加させてもらったときからいい雰囲気だったし、慶応のシステマチックなラグビーと違って、個人の判断でボールを動かしたりして有機的で面白そうだと思ったんです」

■リーダーシップを取るため嫌われることを恐れぬ決意

 2004年にチームに加わった廣瀬は、3年後の07年にキャプテンを任される。

 だが、26歳のキャプテンの前には、これまでぶつかったことのないような壁が次々と現れ始める。

 廣瀬が初めてキャプテンを任された年、東芝はトップリーグのベスト4で敗退している。

 シーズンの終わりに廣瀬は部員からアンケートをとり、インタビューを行った。成績不振に終わったシーズンを振り返り、何を感じていたかを忌憚(きたん)なく書いてもらったのだ。

 結果は散々だった。曰(いわ)く「リーダー不在だった」「何考えているのかわからへん」「ついていきたいリーダーじゃなかった」……。

「ここまで書かれるのかとショックでした。ただ、前のキャプテンのときに頑張ってきた人たちが、頑張れなくなっている理由って、どっちにあるって考えたら、僕なんですね。自分が何を大事にしているか、どういうチームをつくりたいかがちゃんと伝えられていないんだと反省しました。社会人になると年上もいるし、自分より上手(うま)い人もいて、プレーだけじゃリーダーシップはとれないんです。嫌われることを恐れず、言うべきことは言おう、というところからスタートしました」

 キャプテン廣瀬は、中高大とガツガツ言うことは避けて、部員の意見を聞きながらうまくまとめていく、というスタイルを貫いてきた。相手を尊重し、話を聞き、衝突を避けて穏便にというタイプだったのだ。しかし、雑多な幅広い層が集まってくる東芝に来て、前に出るところでは出ないと思いは通じない、ということも痛感したのだ。

 キャプテン2年目を迎えると、チームは少しずつまとまりを見せ始め、調子を上げていく。

 そんなある日、チームの外国人選手がタクシーの運転手とトラブルを起こしたというニュースが飛び込んでくる。企業チームが最も避けなければならない不祥事だった。

朝5時半か6時に起きて白湯を飲んだ後、7キロから10キロほどランニングするのが日課。「走りながら音楽を聞いたり、ニュースをインプットしたり、考え事をする貴重な時間」。近くの海岸にもよく出る(撮影/小山真司)

 結局、当該部員は退部し、叱責はあったものの廃部は避けられた。しかし、事件は続いた。

 マイクロソフトカップの決勝戦、対三洋電機ワイルドナイツ戦を数日後に控えた09年2月、今度は、ドーピング検査でひとりの選手から薬物の陽性反応が出たのだ。

「ついに部はこれでなくなるかもと覚悟しました。なんで、自分がキャプテンのときにこんなことが続けて起きなあかんねん、とネガティブになってました。ファンにも先輩にも申し訳なくて」

 監督、部長は謹慎、選手たちも3日間自宅待機の処分。世間からのバッシングもあったが、会社からはトップリーグ決勝戦への出場は認められた。廣瀬は、部員たちを前に、「すごい状況やけど、ラグビー部を守るためにも、あるいは一生懸命ラグビーをやってきたことをお客さんに見てもらう意味でも、チャンスやから、決勝戦で頑張ろう。勝って示そう」と涙ながらに訴えた。 

 それは、廣瀬のラグビー人生でも忘れられない一戦となった。

「チーム一丸となって、あんなに集中したことはないというぐらい集中できた。結果は17対6。自分のパフォーマンスも最高で、きれいにすいすいと走れる、いわゆるゾーンに入っている感じでした。試合後、両チームのファンからかけられた温かい言葉もとにかくありがたくて、ラグビーというスポーツがさらに好きになっていた」

■怒りの声も上がる中で選手会を立ち上げる

 12年3月、サントリーの監督、エディー・ジョーンズから東京・分倍河原駅近くのタリーズに呼び出され、廣瀬はこう言われた。

「1年間、代表のキャプテンをやってほしい。日本のラグビーはもう二十何年も勝ってなくて、ボトムまできているから、あとは上がるだけだから。それを一緒につくっていこう」

 エディーは4月から日本代表監督に就任することになっていた。15年のW杯イングランド大会を念頭においてのことだった。

「エディーさんのラグビーは新鮮でした。トレーニングと食生活、睡眠を変えるだけでこんなにもパフォーマンスは上がるのかと思いました。体重も増えたし。ただ、練習は味わったことないぐらいきつかった。試合よりきつい状況をつくるというのがエディーさんのやり方でしたから」

 日本代表と東芝の先輩で、代表キャップ数98を誇る大野均(45)は、W杯直前に行われた代表合宿をこう振り返る。

「街から離れたホテルで息抜きもできず、梅雨時で太陽も出ず、みんな精神的にきつかった。そのときトシは、『きついけど、この合宿を乗り越えたら、人として徳を積める気がするんですよ。修業としてやっています』と言ったんです。ああ、そういう考え方もあるのか、俺もそれでやってみようと思いました。トシは常に自分をちょっと居心地の悪いところに意識的に置こうとする。それが成長するために必要だということをわかっている人間なんです」

(文中敬称略)(文・一志治夫)

※記事の続きはAERA 2023年9月18日号でご覧いただけます