思想家・武道家の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、哲学的視点からアプローチします。

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 先日、朝日新聞から天皇制についてのインタビューを受けた。その中で昨夏の陛下の「おことば」を高く評価し、天皇制はすぐれた政治制度であると語った。これについて「右」のメディアから好意的な反応があったのは怪しむに足りないが、「左」のメディアから批判的なコメントがほとんどなかったのは意外だった。同時期に私は兵庫県知事選で共産党が支持する候補者の推薦人になっていたので、誰かから「そういうことを言われては困る」と苦情を呈されるかと思っていたが、何も言われなかった。

 その少し前に「赤旗」が取材に来て、共産党の党勢はこれから伸びるでしょうかと訊かれた。「右」にウイングを広げればチャンスはあるとお答えした。かつては共産党の「左」に「極左」がいた。「極左」は共産党の市民政党化をことあるごとに批判し、「ブルジョア議会制への屈服」「俗情との結託」と罵った。共産党は「極左」からの批判など痛くもかゆくもないという顔をしていたが、やはりマルクス主義政党としては、誰からであれ「反革命」と罵られることは心痛む経験だったに違いない。

 その「極左」が消えた。「共産党より左」の政治勢力が事実上消滅したのである。もう何をしても「堕落」とか「裏切り」とか言われることがなくなった。この解放感と、それによってもたらされた政策選択上のフリーハンドは意外に大きなものだったと私は推察している。私のような武道と能楽を嗜み、神道の禊行を修するような公然たる天皇主義者に候補者の推薦を依頼してくるというようなことは、かつての共産党ではありえなかったことである。

 共産党がこの先党勢拡大を願うならヨーロッパの社会民主主義政党に近いものになるしかないだろう。経済成長が終わり、資源のフェアな分配と、社会的弱者を「とりこぼさない」政策を進めようとするなら、社会民主主義の古ぼけた旗の埃をはたき落として掲げ直し、「みんな同じくらい貧乏になる」社会をめざす以外に現実的な選択肢はないからである。ネトウヨたちの「左」に対するあの異常な憎悪は「もうすぐ到来するぱっとしない時代」の予感がもたらしているのである。

※AERA 2017年7月24日号