眞子さまと小室さんの結婚問題に端を発した、秋篠宮家への批判は、やむ気配がない。批判の嵐は、平成が始動したばかりの頃の「皇后バッシング」を思い起こさせる。このとき、母のために口を開いたのは、黒田清子さん(52)だった。清子さんの文書をひもとくと、皇室バッシングの嵐をしずめる糸口が見つかりそうだ。


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 世間から批判を浴びる皇室。そして家族をかばうように言葉を紡ぐ内親王。

 思い起こされるのは、平成がはじまって間もない時期に起きた皇后バッシングだ。平成が本格的に船出し、東南アジアや中国の訪問がはじまったころ、守旧派は平成の皇室に対する批判を強めた。

 明仁天皇(現上皇)と皇后(現上皇后)美智子さまは傷つき、孤立感を抱いた。次第に、批判は皇后に集中するようになった。そして1993(平成5)年10月20日。誕生日の朝に、美智子さまは倒れて声を失った。

 このとき公表された、美智子さまの誕生日文書の言葉を一度は耳にしたことがあるだろう。

<どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います(中略)批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません>
 吹き荒れる皇后バッシングに対して、黒田清子さんは2度に渡り、思いを述べたことがある。

 最初は、美智子さまが声を失った翌年、平成6(1994)年4月18日。清子さん25歳の誕生日の回答文書だった。清子さんは、声を失った母の身を案じながらも、こうつづっている。

<お言葉がでないということは、皇后様にとってどんなにお辛く、御不安でいらっしゃるかと思います。ただ、私にとって不思議だったことは、皇后様がそのような状態でいらっしゃっても、私達の日常生活が大きく変化したとは感じられなかったことです。昨年、両陛下がヨーロッパをご訪問になった後、現地の人から届いた手紙の中に、皇后様に会われた時の印象として「quality of presenceを深く感じた」ということが書いてありました。読んだ時には、心に残っても具体的に理解することが出来なかったこの一言が、言葉を失われてからの皇后様との日々に、改めて思い出され、自分の中で実感としてわかることが出来たように感じています。皇后様の在り方やご様子はとても「言葉」に近く、「話される」ということ以上にそこにいらして下さるということが、私の安心感と喜びにつながっていたように思います>

 この時期、清子さんは、美智子さまを懸命に支える役目を担っており、これ以上言及することはなかった。

 皇后バッシングについて、清子さんが再び思いを口にしたのは、10年後である。 

 2005(平成17)年4月、黒田清子さんは36歳の誕生日を迎えた。黒田慶樹さんとの結婚をひかえ、内親王として最後の誕生日であった。記者からの質問に答えた文書回答は、400字詰の原稿用紙24枚分、9000字を超えるボリュームだった。

 注目されたのは、美智子さまが声を失った悲しみに触れた箇所だ。

<両陛下のお姿から学んだことは、悲しみの折にもありました。事実に基づかない多くの批判にさらされ、平成5年ご誕辰(たんしん)の朝、皇后さまは耐え難いお疲れとお悲しみの中で倒れられ、言葉を失われました。

 当時のことは私にとり、まだ言葉でまとめられない思いがございますが、振り返ると、暗い井戸の中にいたようなあの日々のこと自体よりも、誰を責めることなくご自分の弱さを省みられながら、ひたすらに生きておられた皇后さまのご様子が浮かび、胸が痛みます。

 私が日ごろからとても強く感じているのは、皇后さまの人に対する根本的な信頼感と、他者を理解しようと思うお心です。皇后さまが経てこられた道には沢山の悲しみがあり、そうした多くは、誰に頼ることなくご自身で癒やされるしかないものもあったと思いますし、口にはされませんが、未だに癒えない傷みも持っておられるのではないかと感じられることもあります>
 清子さんは、深い教養と見識をもちながらも春風のような温かさを持ち合わせた内親王であった。この文章も、美智子さまを批判した相手を強く責めてはいない。それでも、バッシング報道に苦しみながらも批判する相手を理解しようと努め、平成の天皇、皇后として歩むご両親の生き方が伝わるものだった。

 紀宮時代から清子さんを知る記者や宮内庁関係者らは、「清子さんに対する批判の声を、聞いたことはなかった」と口をそろえる。

 「サーヤ」と呼ばれ、国民から愛された清子さん。皇室を長く取材してきたジャーナリストは、こう話す。

「これはサーヤのラストメッセージだった。両陛下が孤立無援のなか、バッシングに苦しんだ時期から、『国民に寄り添う平成の皇室』といわれるまで、そのプロセスを見て支えてきたのはサーヤだった。これは、清子さんの誕生日文書だけれども、平成の両陛下が立派にやってきたことを記録に残すという意味では公的な性格を持つ資料のようなものだったと思う」

 元宮内庁職員の山下晋司さんは、報道室の担当として、平成の皇室を見ていた。

「平成5年のいわゆる"皇后バッシング"のときは、声を失った母・皇后に寄り添い、時期を見て柔らかい表現でその時のことを言葉になさっていた。こういったご対応は、さすが天皇家のお嬢様だと感じたものです。上皇后陛下のかげになって目立つことはありませんでしたが、その優れた才能から『ミニ皇后』という人もいたほどです」

 清子さんの教養の深さに感心はしたものの、これが皇族のあるべき姿なのだろうとも感じていた、と振り返る。

 平成から令和に移るなかで、皇室の立ち振る舞いや考え方も変わりつつある。そして、天皇や皇族のふるまいに対する国民の受け取り方もだいぶ、違ったものになっている。
 それでも、時を経てもなお重みと品性がにじむ平成の内親王の言葉から、学ぶものはあるにちがいない。

 秋篠宮家と国民の心が互いにつながる日が、はやく来てほしい。(AERAdot.編集部 永井貴子)