日本を代表する名経営者として名を馳せた稲盛和夫(いなもりかずお)氏が、死去した。かつて、週刊朝日で稲盛氏の連載を担当してきた森下香枝前編集長が追悼する。

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 京セラとKDDIの創業者で、経営破綻(はたん)した日本航空(JAL)の会長を無報酬で引き受け、再建した稲盛和夫氏が8月24日、亡くなった。90歳。「自宅で老衰でした。身体的に悪いところはなかったのですが、夏になって弱って食事ができなくなり、眠るように亡くなったようです」と京セラ元幹部は語る。

 稲盛氏と私が出会ったのは2008年秋。当時、週刊朝日の記者だった私は、京セラのグループ企業の不祥事について情報提供があり、京都へ取材に行った。稲盛氏の自宅も訪ねたが、出張中で不在。ご家族に取材依頼の手紙を渡したが、記事はボツになった。数日後の朝早く携帯電話が鳴り、寝ぼけ眼で応対すると、「京都の稲盛ですけど……」。最初は状況がのみ込めなかったが、途中で「もしかして稲盛氏本人……」と仰天した。稲盛氏は案件について丁寧に説明してくれた。“経営の神様”と称される人物が週刊誌の記者に直電をくれるとは想像もしなかった。どんな人物か興味が湧き、今度はインタビューを申し込む手紙を書くと、数カ月後、チャンスをもらった。事件記者の経験しかない私は経営の専門知識がなかったので、当時の上司から「経済専門の記者に交代したほうがいい」と言われたが、『生き方』『アメーバ経営』などを読み、必死で勉強して会いに行った。

 衝撃を受けたのは稲盛氏が考えた仕事の方程式だ。仕事の結果=考え方×熱意×能力というもので、大事なのは仕事への考え方と熱意であり、能力は3番目という論だった。例えば、能力は高くても身勝手で周囲の批判ばかりしていると「考え方」はマイナスになる。一方、壁にぶつかっても人の意見を素直に吸収して努力を続ければ、いずれプラスになるというものだ。一匹狼的に特ダネを追っていた私は編集部という組織を俯瞰(ふかん)して考えたことがなかったので目からうろこの心境だった。稲盛氏がJAL会長となった時もインタビューを申し込み、1年がかりでアポが取れたが、取材日は運悪く東日本大震災の直後。中止を覚悟したが、予定どおり受けると言われ、半信半疑でJALへ行った。「『生き抜くんだ』と自らの魂に火をつけろ」という力強いメッセージをもらい、記事を掲載した。その後、週刊朝日デスクになり、稲盛氏の「これが私の生きてきた道」を13年に連載。ご家族とのほほ笑ましい話などをうかがう機会にも恵まれた。

 稲盛氏は1984年に「ノーベル賞の登竜門」と称される京都賞を創設し、受賞者には山中伸弥京都大教授(10年受賞)らがいた。14年に京都賞が30周年を迎えたことを記念し、山中氏と対談した『賢く生きるより辛抱強いバカになれ』(朝日新聞出版)という本を作らせてもらった。稲盛氏が山中氏に「iPS細胞が人類にとって大善になるか、小善になるか」と問いかけていたのが印象的だった。側近の一人だった京都パープルサンガの伊藤雅章社長は「怒られたこともあったが、経団連の偉い方が集まる懇親会の時でもわれわれに対し、『メシ食えたか』と気遣う人だった」。

 稲盛氏の教えは「誰にも負けない努力をする」「謙虚にしておごらず」「利他」「くよくよしない」など六つの精進。あまり身についていないわが身を反省しつつ、ご冥福をお祈りします。

※週刊朝日  2022年9月16日号