
退職の意思を示した従業員に対して会社側が必要以上の引き留め行為に出る「慰留ハラスメント」。人手不足を背景に深刻化しているという。
■「やっぱり女は根性がないと言われる」
社内のカフェスペースの一番奥のテーブル。さしで向かい合った直属の女性上司が険しい表情でこう切り出した。
「こういう辞め方をされると、やっぱり女は根性がないと言われる。働く女性のためにならない」
これは、入社1年後に退職願を提出した都内の40代女性が経験したシーンだ。約20年前の出来事を女性は「不快な記憶」として鮮明に焼き付けている。「上司は『在籍期間が短い』ことを責める気持ちがあったのだと思いますが、私の人生だし、女性全体のために自分のキャリアパスを曲げるなんて有り得ない、と思いました。この説得策は全く響きませんでした」
ただ、その直後に上司が続けた言葉には動揺したという。「どうしても辞めるのなら代わりの人材を探して連れてくるように」
女性は当時、語学力を生かした専門職に就いていた。頭の中で候補になりそうな何人かの友人・知人が浮かんでは消えた。いま冷静に振り返ると、上司の発言は「アウト」だと分かる。ただその時は「上司が言うように、自分が抜けると職場は回らなくなる。迷惑をかけたくない」という思いが先に立ち、理不尽な要求をはねのけることができなかった。女性はこう振り返る。
「『回らなくなる』は慰留の殺し文句ですよね。誰か一人が風邪で休むと回らなくなる職場の光景を思い出して、とっさに『確かにな』と思ってしまいました」

■転職先から「内定取り消し」の警告
女性の退職の意思は固かったが、退職願は「預かり」となりダラダラと在籍するはめに。その間、個別面談の相手は直属のグループ長から課長、部長、本部長に代わり、断続的に続いた。
「もうちょっと今の職場で頑張ってみなよ」と諭されたり、「5年後、10年後はどうなりたいと思っているの」と職業観を問われたり。女性は転職先が決まっていたが、離職がずるずる延びたため内定企業から「このままだと採用内定を取り消す」と警告された。
女性は「下手をすると、行き先がなくなって路頭に迷うことになる」と強い不安に襲われたが、職場では努めて平静を装った。転職先の採用が取り消されそうだと明かせば、「それならここに残れ」とつけ入る隙を与えてしまうと考えたからだ。
そうまでしてなぜ、退職を認めない会社の横暴に耐え続けたのか。女性はこう吐露した。
「『立つ鳥、跡を濁さず』という思いに縛られていたのだと思います」
「健全な形で辞めたい」という気持ちが強かったため、会社に対して強い姿勢には出なかったという。結局、女性の退職願が受理されたのは半年近く経ってから。転職先の内定が取り消されるぎりぎりのタイミングだったという。

■退職代行サービスに寄せられる「遺留ハラスメント」の訴え
退職の意思を示した従業員に対して会社側が必要以上の引き留め行為に出る「慰留ハラスメント」が顕在化している。
「過度な引き留め行為は昔からあったと思いますが、退職代行サービスの普及によって退職理由や経緯を詳しく把握できるようになったことで、慰留ハラスメントの内情が『見える化』されてきたのだと感じています」
こう話すのは、退職代行サービス「モームリ」を運営するアルバトロス(東京都品川区)の谷本慎二代表(36)だ。退職代行サービスの相談者の半数超は慰留ハラスメントとセットで悩みを打ち明けるという。
「もともと離職率が高く、パワハラ体質の経営者や上司がいるブラックな企業では退職願がすんなり受理されることはまずありません。令和の時代にまだこんなことが起きているのか、と驚くようなケースが後を絶たないのが現実です」(谷本さん)

■退職意思伝えると「5年待ってね」
正直に明かせば、筆者には退職代行サービスを利用するのは「社会経験の浅い若者」という偏見がどこかにあった。そう告げると、谷本さんは「それは事実ではありません」と明確に否定した。同社の場合、利用者の6割は20代だが、中高年層も珍しくない。今年4月には83歳の男性から依頼を受けた。「自分が転職を考えた時期にこういうサービスがあれば利用していた」という中高年層の声も少なくないという。
なかには入社時に、短期間で退職した場合は「会社側の損害賠償請求を受け入れます」という誓約書にサインをさせられていた人や、「退職の意思を3回伝え、最後は土下座したにもかかわらず退職できなかった」と訴える人もいた。ほかにも、「提出したばかりの退職願が目の前でシュレッダーにかけられた」という人、「退職の意思を伝えると『5年待ってね』と言われた」と打ち明ける人など、耳を疑うような事態が繰り返されているという。
背景には、深刻度を増す人手不足がある、と谷本さんは指摘する。「業績が厳しく、人手不足の企業ほど退職希望者を執拗に引き留めなければ、さらに業績が悪化するという悪循環に追い込まれています」
責任感の強い人や気弱な人ほど、「業務が回らなくなる。残る人のことを考えろ」と詰められると辞められなくなる。職場で孤立しながら在籍するストレスで心身を病む人も少なくない。谷本さんは退職の意思を示しても職場を離れられずにいる人に、こうアドバイスしている。
「そもそも欠員が出て業務が回らなくなるのは、会社の人員配置能力の問題です。体調を崩してまで退職できない、という事態は絶対に避けるべきです」

■経営者の熱意伝わり、辞意撤回
冒頭の女性は現在の職場でも一度、退職願を出したことがあると明かした。「辞めたい」と告げると、経営者に呼び出され社内応接室の奥の席に通された。そして、「あなたが退職を撤回するまで、私はこの部屋から出ないつもりだ」と宣告されたうえで、「これから会社を大きくしていこうとしている。その時に君がいてもらわないと困る」と説得されたという。小さな会社のため、経営者とは普段から人間関係を築いていた。女性は経営者の熱意や本気度が伝わり、結局辞意を撤回したという。女性はこう振り返る。
「私を応接室に閉じ込めた場面だけを切り取ると間違いなく過度な慰留だったと思いますが、私はあれをハラスメントとはジャッジしていません」
前職で慰留された時とは何が明暗を分けたのか。女性は「ミスマッチ」を理由に挙げた。「会社側が社員を引き留めるために提示する『辞めさせたくない理由』と、社員が会社側に慰留される時に『提示してほしい言葉』にミスマッチがあれば、ハラスメントだと感じるのだと思います」

女性の場合、「辞められると困る」という会社側の思いは前職と現職のいずれの職場にも感じ取られたが、前職では「代わりの人を探して連れてきて」という言葉に象徴されるように、女性のことを「代替可能な存在」としか見ていない上司の思いが透けて見え、不快感を覚えた。これに対し、現在の職場ではトップの経営者自らが女性の仕事の中身に触れ、どれだけ高く評価しているか懇切丁寧に説明してくれた。
■余裕のない上司や経営層
「本心かどうかは分かりませんが、悪い気はしませんでした。それだけでなく、この経営者のもとで会社に残って頑張れば、どうにかなるかなという安心感も得られました」
女性はいま中間管理職で、部下からいつ退職願を出されてもおかしくない立場にある。部下との距離感や人間関係を築くのも難しい時代。慰留する側もうかつな言動はできない、と女性は自身に言い聞かせるようにこう話した。
「一人ひとりの業務量が増え、人手不足が深刻化するなか、慰留する上司や経営層の人たちも気持ちに余裕がなくなっていると感じます。私も普段の業務でアップアップの状態で部下から突然退職の意思を告げられたとしても、対応を誤らないよう肝に銘じておきます」
(AERA編集部・渡辺 豪)


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