あれからもう四半世紀の月日が経とうとしている。1993年7月20日、広島で投手として活躍した津田恒実さん(旧名・恒美)が、脳腫瘍のために死去した。享年32歳とあまりにも早すぎる死だった。津田さんは、その投球スタイルから「炎のストッパー」と呼ばれた剛腕で、カープファンのみならず、プロ野球ファンの間で今もなお語り継がれている存在だ。(以下敬称略)

 山口県都濃郡南陽町(現・周南市)出身の津田は、南陽工高で1年時からエースとして活躍し、3年時には春夏連続で甲子園に出場。その剛速球は当時、怪物と呼ばれる選手の代名詞となっていた江川卓(作新学院高、巨人)に匹敵する存在として「ツネゴン」という愛称で呼ばれた。卒業後は社会人野球の協和発酵に進み、81年のドラフト1位で相思相愛だった広島に入団した。

 1年目から先発ローテーション入りを果たした津田は、11勝を挙げて球団初の新人王に輝いた。2年目も前半戦で9勝を挙げ、球界を代表するエースが誕生したと思われたが、同年のシーズン中に右肩不安、さらには右手中指の血行障害も発症して戦線離脱を余儀なくされた。

 その後は故障の影響で登板機会が減ったが、血行障害の完治のために当時は前例のなかった中指の靭帯摘出手術を行い、名前も「恒美」から「恒実」に改名した。津田と言えば背番号「14」というイメージが強いが、入団時の番号は「15」だったことは意外に知らない人も多いかもしれない。これを変更したのもこの時期だった。

 そんな時期を経て復帰後、手術の影響も配慮して短いイニングでの全力投球を期待され、ストッパーに抜擢されたプロ5年目の1986年に転機が訪れた。前半戦は防御率0点台とほぼ完璧な投球で好調なチームの原動力となり、後半戦には失敗も増えたが、最終的に4勝6敗22セーブ、防御率2.08で、チームのリーグ優勝に貢献し、カムバック賞も受賞した。

 ひょうきん者で、ある意味、天然とも言うべき明るい性格で、チームメートの誰からも愛された津田だが、この年の優勝決定試合では、それを感じさせるエピソードがあった。この試合、先発した北別府学は、8回まで3失点と好投。5点リードで9回を迎え、当時の状況では、完投で北別府が胴上げ投手になると思われたが「津田が1年間、抑えで頑張ってくれた」という理由で、北別府が日頃からかわいがっていたという後輩に、最終回のマウンドを譲った。

 カープの守護神となった津田は、89年には51試合に登板して12勝5敗28セーブ、防御率1.63の好成績で当時、最優秀救援投手に贈られたファイアマン賞を受賞した。しかし、翌90年は右肩、右膝と相次ぐ故障で4試合の登板に終わり、大野豊とのダブルストッパー構想で臨んだ91年に、開幕から2試合に登板したのみで戦線離脱。地元での巨人戦で原辰徳に逆転打を打たれたのを最後に、そのまま津田がマウンドに戻ってくることはなかった。

 登録抹消時には水頭症と発表され、引退扱いの準支配下登録選手となったが、実はすでに脳腫瘍を発症していた。その年のオフには、津田本人が退団届を提出し、任意引退選手となった。この年のシーズン中に津田の本当の病名を当時の山本浩二監督がナインに告げ、「津田のために頑張ろう」と一丸になったチームは、86年以来となるリーグ優勝を達成した。

 リリーフ転向後の津田は、投球の90パーセント近くがストレートと言われ、その剛球は数々の伝説をつくった。86年には当時、2年連続三冠王に輝くなど阪神史上最高の助っ人と言われるランディ・バースを相手に、すべて150キロを超えるストレートで3球三振に打ち取った。試合後のバースは「ツダはクレイジーだ」とコメントを残した。

 さらに同じ年の巨人戦では、津田のストレートをフルスイングでファウルした原辰徳が、左手の有鈎骨を骨折した。津田の現役生活最後の対戦打者となった原だが、その負傷を境に、引退まで自分本来のスイングができなくなったと、のちに述懐している。

 マウンドでは闘志あふれる投球で、時には相手打者に対して、敵意をむき出しにすることもあった津田だが、普段は優しい性格で、気の弱い面もあった。その津田が座右の銘としていたのが「弱気は最大の敵」。高校時代に指導を受けたコーチに贈られたというその言葉は、津田の死後、旧市民球場時代にブルペン脇に設置され、現在もマツダスタジアムのブルペンの入り口にある「津田プレート」に刻まれている。

 広島を任意引退となり、死去まで約2年間の闘病生活を送った津田は、一時は奇跡的な回復を見せ、復帰のためのトレーニングを行っていたという。しかし、再び病状が悪化し、1993年7月20日に帰らぬ人となった。その日は、プロ野球が最も注目される日でもある、オールスター第1戦が行われた日だった。