陸上男子100メートルで日本人の9秒台候補が続々登場する中、韓国でも大台に挑む選手が現れた。躍進の陰には、日本人コーチの存在があった。

 北海道らしからぬ酷暑に見舞われた7月9日の札幌市。南部忠平記念陸上競技大会の会場で、2人のコーチと談笑する韓国人男子選手の姿があった。

 6月下旬に10秒13、10秒07と立て続けに100メートルの韓国記録を更新した金国栄、26歳だ。この大会でも勝ち、1カ月を切った世界選手権(ロンドン)に向けて静かに集中力を高めているといった雰囲気が漂う。

「9秒台を、来年には出したい」

 日本語が少しできる朴泰硬コーチを介して「目標のタイムは?」と尋ねると、きっぱりとした答えが返ってきた。

●31年ぶりの韓国新記録

 金が国内で最初に注目を浴びたのは2010年6月の韓国選手権。この大会で金は、1979年に出された韓国記録10秒34を実に31年ぶりに更新した。10秒31、10秒23まで伸ばしたのだった。

 メディアと国民は沸き立った。「次の記録はいつ出る?」「早く出して」。韓国陸上界のフロントランナーに躍り出た金は、過熱する報道と高まる期待を一身に受け、一人重圧と戦う運命を背負うことになった。

 次に記録を更新できたのは15年の10秒16。5年間足踏みした背景にはこうした重圧との苦闘があったという。武器は、高速で回転する発達した筋肉や、衝撃に負けない足首の関節の強さを生かしたレース前半の加速力だ。だが、もっと速くなるには何かが足りない。それを見つけるために金が選択したのは、日本の筑波大学で武者修行することだった。

 冒頭で金が談笑していたもう一人のコーチこそが、指導を受けた筑波大陸上部の谷川聡監督だった。男子110メートル障害の日本記録保持者でもある日本で指折りの理論派コーチだ。金は信頼関係を築いたコーチの下で昨季の1年間、教えを請うた。

 陸上コーチが外国のトップ選手を指導する。日本ではあまりみられないことだが、筑波大での事例は金が最初ではなかった。発端は03年の末、東海大学の宮川千秋名誉教授(当時・陸上部コーチ)が韓国の大学から指導依頼を受け、06年には韓国代表チームの短距離コーチを任されたことだった。

●筑波大での修業が力に

 その過程で、協力を依頼されたのが谷川監督(当時・コーチ)だった。05年末から07年まで、谷川監督は現在金を教えている朴コーチと男子短距離選手の2人を筑波に受け入れた。朴コーチはアジア大会銅メダルなどの成績を上げ、110メートル障害の当時の韓国記録も出した。

 その後には、女子100メートル障害の韓国記録を塗り替え、金とともに今年の世界選手権に出場する鄭恵林を指導。4人目の教え子となったのが、金だった。谷川監督が言う。

「国籍などに関係なく、ウェルカムで指導しているだけです。現状打開には別の環境で学ぶのは良いこと。金さんの場合もネガティブをポジティブに変えるターニングポイントにはなったと思います」

 事実、教え子4人中3人が韓国記録を出した。淡々とした自然体のスタンスでありながら、選手に向ける視線には愛情がこもる。金の走りを見た谷川監督は、ある課題を見いだした。「焦らずに重心の落ちてくるポイントで脚を踏み込めば、エネルギー効率も上がって後半も伸びる」。目印を等間隔で並べたり、下り坂を利用して走ったりするなどのメニューを伝授した。

 金は「9秒台が出せるだろうか」と不安を漏らすこともあったという。だが谷川監督は、「日本人が目前に迫り、中国人の蘇炳添選手はすでに出している(15年に9秒99を記録)。彼らにできて君にできないはずはない」と奮起を促した。
 それらの延長線上にあった今年の10秒0台突入。金は「日本での経験が力になっている。日本や中国の選手には負けられない」と決意を口にした。

 8月4、5日、ロンドンでは、日中韓による9秒台を巡る競演が見られるかもしれない。

(ライター・高野祐太)

※AERA 2017年8月7日号