10月10日で1964年東京五輪からちょうど55年。来年7月には五輪が東京に戻ってくる。日本の人気種目、マラソンを中心に振り返ると、五輪は名誉と利権を求めて毎回のようにもめてきた、人間臭いストーリーにあふれていることがわかる。スポーツライター・武田薫氏が五輪の歴史と魅力を紐解く。



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 アジアで初めて開催された64年の第18回オリンピック競技大会では、幾つもの忘れられないシーンがある。この大会で日本勢最初の金メダルを“差し上げた”三宅義信、「東洋の魔女」が見せた回転レシーブ、アントン・ヘーシンク(オランダ)に抑え込まれた柔道無差別級の神永昭夫……。

 そして、国立競技場でベイジル・ヒートリー(英)に抜かれた円谷幸吉のあえぐ足取りは、その後の自死という悲しい結末とともに語り継がれている。

 円谷のメダルは、日本が最初に参加した12年ストックホルム五輪の金栗四三からの悲願であり、衝撃の結末でもあった。円谷はトラックの選手だと思われていたからだ。

 64年4月の日本代表最終選考会では、君原健二、円谷、寺沢徹の順にゴールした。君原と寺沢は既に実績を積んだマラソンランナーだったが、円谷は1カ月前の初マラソンで5位に入ったばかり。“駆け出し”が代表になるとは誰も思っておらず、3位なら代表は外されていたとさえ言われた。“幻の代表”が選考会4位の土谷和夫だ。

 土谷は実業団を経て日大に入り、天才ランナー・澤木啓祐の天敵だった。インカレ(日本学生対校選手権)では5000メートル、1万メートルの2冠を2度達成、箱根駅伝では4年連続区間賞で日大黄金時代を築いた、誰もが認めたスピードランナーだ。

 円谷を推したのはスピードマラソンを実感していた織田幹雄・陸上競技総監督だが、トラックの実績では土谷のほうが上だから、やはり選考会の2位が決め手だったのだろう。五輪の本番で君原、寺沢は実力を発揮できなかった。円谷の“未知の力”“無知の力”がもたらしたメダルと言えるかもしれない。

 土谷はその後、プロ野球のヤクルトや西武の走塁コーチを務め、晩年まで東京五輪への思いを口にしていたという。マラソンの代表選考には一発で決められない難しさがあり、もめてきた。そのもめる背景に時代が背負った問題があった。

 マラソンが日本初参加のストックホルム五輪から“華”となったのは、日本人でも勝てると踏んだからだ。08年ロンドン五輪を観戦した毎日新聞の相島虚吼はこう記している。

「欧米人の中には日露戦争に於(お)ける日本の強行軍の記事等に見て千二百メートルか八百メートルでは足の長い西洋人が勝つだらうが、二十哩(マイル)以上となれば日本人が勝つであらうと信ずるものがある位である」(大阪毎日新聞)

 その華が最初にもめたのは、24年パリ五輪だった。田代菊之助(中大)は車夫でもあったため、学生たちが反発した。箱根駅伝だけでなく野球もテニスも、スポーツは学生すなわち上流階級のイベントで、田代問題は階級問題だった。

 次は36年ベルリン五輪だ。金メダルを持ち帰る孫基禎は抜群の強さで非の打ちどころがない。問題は同じ朝鮮出身の南昇竜だった。選考会で南が優勝し(2位が孫)、期待された鈴木房重は3位、池中康雄は途中棄権に終わった。ベルリンには上位3人とベテランの塩飽玉男を加えた4人が派遣され、現地で南を外すといううわさがあった。

 これには伏線があった。

 その前の32年ロサンゼルス五輪でも、日本統治下の朝鮮から代表が2人選ばれた。28年アムステルダム五輪代表で実績のある津田晴一郎でメダルを取ろうと、2人をペースメーカーに仕立てる作戦だった。

 差別意識ではなく実力主義だとは宗主国の言い分で、統治下の民心ではない。ベルリンの選考会で朝鮮側は警戒し、超スローペースだったのは南を1位に仕立てる戦術だったかもしれない──。これは植民地問題である。

 戦後も同様で、68年メキシコ五輪がもめた。

 佐々木精一郎、宇佐美彰朗、君原が代表になり、選考レースで君原に2度勝った釆谷義秋が外れた。君原が所属する八幡製鉄(当時)のコーチ、高橋進が執拗(しつよう)に食い下がった。当時は実業団の全盛期で、一方の釆谷は高校教員の一匹おおかみ。高度経済成長下の力関係が影を落とした。

 88年ソウル五輪は、瀬古利彦でもめたのはよく知られている。瀬古は“一発選考会のはず”の福岡国際の直前に故障して欠場。翌年のびわ湖毎日で再挑戦という特別待遇を与えられた。瀬古は11戦9勝の強さ。国内外を問わず引っ張りだこの実力者で、日本陸上競技連盟も一発勝負を提案できる状況になく、「福岡で勝負しよう」と選手が内々で約束するしかなかった──。スポーツの商業化を象徴したもめ事だった。

 来年の東京五輪に向けて行われたマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)も2人を選ぶのみで、正しくは“一発勝負”ではない。3枠目を残している。それが悪いこととは思わないが、きっともめるだろう。

 4年に一度、日常の垢(あか)を拭って五輪に出ていくとき、代表選考で騒ぎを残してきた。ああだこうだと言いつつも、恥ずかしながら、そこに私たちの歩んできた時代模様が染みているのだから仕方がない。

 ロードレースは私たちの生活に密着して普及し、ゆえに幅広い人気があり、そこに名誉も利権も湧き出て人間臭い──。

 こうした事情は大なり小なりどこの国のどの競技にもあるだろう。五輪はそうした様々な人間の営みを一堂に集めるイベントだから、理屈に合わない結果も起こるのだろう。

『増補改訂 オリンピック全大会 人と時代と夢の物語』(朝日選書)を書きながら、人間が多様だから五輪はもめながら続いてきたと思った。

「より速く、より高く」とは言え、もはやどの競技も世界選手権の記録にかなわない。それでも五輪の存在感が衰えないのは、そこに多様な人間のあやをかき分けて時代の夢が広がっているからだ。あやが複雑なほどドラマチックになる。

 20年東京五輪は間違いなく多くのストーリーを残す。ただ、それがさわやかかどうかは我々の判断の埒外(らちがい)だ。選手と一緒に瞬間に熱くなり、語り合い、愛情を持って拍手で送り出し、再び4年間の日常に戻るのだ。(スポーツライター・武田薫)

※週刊朝日  2019年10月18日号