バスケットボールの強豪校「能代工業高校」の校名が、来年から「能代科学技術高校」になることが正式に決まった。

 今回の校名変更は、能代工業と近隣にある能代西高校が統合されることによるもの。校名変更の条例改正案が秋田県議会に提出され審議されていたが、7月7日の同議会本会議において全会一致で可決されたことで「能代工」の名前が消滅することになった。

 新校名については、各メディアが取り上げていた他、同校出身者や地元住民、全国のファンらが「能代工」という名称を残すように6月時点で5千筆、7月には9千筆を超える署名を集めるなど、校名存続と「能代科学技術高校」の再考を求めていた。しかし改正案が覆ることはなく、1927年から続く「能代工」(当時は秋田県立能代工業学校)の名前は、来春でその幕を下ろすことになったというわけだ。

 では、どうして地方にある工業高校の統合による校名変更が、ここまでの騒ぎになり全国的にも注目されることになったのか?そこには同校男子バスケットボール部の偉業があるからに他ならないだろう。

 日本のバスケットボール史を語る上で、「能代工」は欠かせない存在だ。1967年に埼玉国体で初優勝すると、そこからインターハイは6連覇を含め合計22回、国体を16回、さらにはウインターカップを4連覇1回、3連覇3回を含め20回も制覇。能代工の次にウインターカップを制した回数が多いのは、NBAワシントン・ウィザーズでプレーする八村塁を排出した宮城県の明成高校の5回となっており、その突出ぶりが見て取れる。

 またインターハイ、国体、ウインターカップの年間3冠を9度も達成。1970年代から2000年代はまさに能代工の独壇場と言え合計58回の優勝はもちろん全国最多。バスケットボールを知らない人でも「能代工」という名前をどこかで聞いたことがあるのはこの偉業があるからで、バスケファンが「能代=バスケの街」というイメージを持つのは、この席巻ぶりによる。

 歴代監督は、初代の加藤廣志氏から1990年に教え子の加藤三彦氏に引き継がれ、加藤三彦氏は全日本ジュニアのコーチ、栃木ブレックス(現宇都宮ブレックス)のヘッドコーチも歴任した存在。その後の佐藤信長前監督は、退任後にB2青森ワッツのヘッドコーチとなるなど、その指導力はプロレベルでも高く評価されていることが証明されている。

 輩出した選手も一流どころが揃う。日本バスケのレジェンド・田臥勇太も能代工のOBだ。神奈川県出身だが能代工に進学し1996年から1998年まで、インターハイ、国体、ウインターカップをそれぞれ3連覇する「高校9冠」という驚異的な実績を残した。卒業後にブリガムヤング大学ハワイ校に進み、トヨタ自動車アルバルク(現アルバルク東京)に入団。2004年にはNBAフェニックス・サンズで4試合プレーし、日本人初のNBAプレーヤーとなったが、それも能代工での基礎があったからだろう。

 京都ハンナリーズの内海慎吾も能代工を卒業したプレーヤーの一人だ。父親も同校出身で、能代時代は一年生でインターハイ優勝。二年生でインターハイとウインターカップの二冠を達成した。また、川崎ブレイブサンダースの長谷川技と琉球ゴールデンキングスの満原優樹は、1989年生まれの同級生として能代工に進学し、ともに一年生の時から主力で活躍。三年生だった2007年にはインターハイと国体の二冠に輝いている。

 この他にも、特別指定選手から来季より正式契約となったサンロッカーズ渋谷の盛實海翔、秋田ノーザンハピネッツの長谷川暢も能代工OB。古くは日本バスケ屈指の名将・小野秀二氏も卒業生として名を連ねており、能代工は長きにわたりバスケ界を支える存在を輩出している存在となっているのだ。

 さらに、能代市がある秋田県がホームのノーザンハピネッツは、会場をピンク色で埋め尽くす“クレイジーピンク”というBリーグでも屈指のファンが有名。チームはBリーグになってからB2降格も経験するなど厳しいシーズンが続いているが、ファンの熱狂度に限りはない。これも能代工が秋田に築いたバスケの土壌が、県民に根付いているからなのだろう。

 能代工は、ここ10年以上、留学生を中心にしたチーム編成を行う私立の影に隠れ日本一がなく目立った強さがない。生まれ変わる「能代科学技術高校」が、これまで築いた偉大な歴史をどのように紡いでいくのか注目したい。(文/田村一人)