ダルビッシュ有(195センチ)、大谷翔平(193センチ)、藤浪晋太郎(197センチ)ほか、190センチを超える投手たちがメジャーやNPBの第一線で活躍中だが、かつては「190センチ以上の投手は大成しない」というジンクスもあった。

 87年に最多勝を獲得した阪急時代の山沖之彦(191センチ)や広島、日本ハムで活躍した金石昭人(197センチ)らの成功例もあるが、その一方で、“未完の大器”のまま終わった悲運の大型投手たちも多数に上る。

 成人男子の平均身長が約161センチだった昭和30年代に、209センチの長身右腕として話題になったのが、馬場正平(後のジャイアント馬場)だ。

 55年、三条実を中退して巨人に入団した馬場は、57年に1軍昇格。2試合にリリーフ登板したあと、10月23日の中日戦のダブルヘッダー第1試合でプロ初先発のマウンドに上がった。

 この日はシーズン最終戦で、2日前にリーグ優勝を決めていた巨人は、主力の川上哲治と与那嶺要が欠場。消化試合であることに加えて、中日の先発・杉下茂が通算200勝にリーチとあって、水原円裕(茂)監督は敵に塩を送るつもりで、実績に乏しい馬場を登板させたようだ。

 馬場は初回、先頭の岡嶋博治に遊撃内野安打を許し、1死後、井上登の右越え二塁打と西沢道夫の右犠飛で1点を失うが、2回以降は丁寧な投球で、5回を5安打1失点に抑えた。

 だが、0対1の6回からリリーフを送られ、終わってみれば0対10の大敗。予想外の好投で杉下の快挙が危うくなりかけたため、水原監督が怒って交代したともいわれる。

 この一件が尾を引いてか、その後、馬場は2軍で最優秀投手賞を受賞しても1軍に呼ばれることなく、通算0勝1敗で59年オフに自由契約。好投すれど報われずの典型のような結果に終わった。

 翌60年、大洋のキャンプに参加した馬場は、内定通知を受けた直後、風呂場で転倒した際にガラス戸を突き破り、左肘に重傷を負うという不運な事故で野球選手を断念。プロレスラーに転身して一時代を築いたのは周知のとおりだ。

 ジャイアント馬場の向こうを張って、“ジャンボ”の異名で親しまれたのが、193センチ右腕の仲根正広だ。

 72年に日大桜丘のエースとしてセンバツ優勝投手になった仲根は、鈴木孝政(元中日)とともにドラフトの目玉となり、指名順4番目とくじ運に恵まれた近鉄が1位指名。セの在京球団希望だった仲根は当初「一番知らない球団」に難色を示したが、その後、近鉄側の猛アタックが実り、一転入団となった。

 1年目の目標は「20勝、20本塁打」。実現すれば、大谷より40年も前に“リアル二刀流”が誕生していたところだが、翌73年は、1試合3ボークを記録するなど粗さが目立ち、1勝8敗に終わった。

 2年目以降も肩を痛め、78年までの5年間は、1軍登板わずか5試合。肩の故障は、練習でコーチに鉄球を投げさせられたことが原因と噂されるなど、育成環境にも恵まれていなかったようだ。

 だが、79年から左打ちを生かして打者に転向すると、83年に14本塁打を記録。夢の二刀流は不発に終わったものの、打者として入団時の目標に近い結果を残した。

 もう一人、“ジャンボ”と呼ばれた男が、79年夏の甲子園4強、横浜商の193センチ左腕・宮城弘明だ。ヤクルト入団後は肘の故障に苦しみ、在籍5年で0勝3敗、防御率7.17と、こちらも“離陸”できずじまいだった。

 巨人のドラ1として将来を嘱望されながら、1勝もできずに終わったのが、191センチ右腕・谷口功一だ。

 天理高時代は1年先輩の193センチ右腕・南竜次(元日本ハム)と“ツインタワー”を形成し、90年夏の甲子園を制した。翌91年のドラフトで、若田部健一の抽選に敗れた巨人が外れ1位で指名。ここから野球人生が大きく変わっていく。

 1年目は2軍で4勝を挙げ、ビッグ・ホープ賞を受賞と順調なスタート。同年オフ、13年ぶりに復帰した長嶋茂雄監督も、若手投手の1番手として目をかけていた。

 翌93年、不調の槙原寛己に代わって1軍登録された直後のヤクルト戦で、8回に初登板も、最初の打者・池山隆寛に一発を浴びるなど、1回2失点のほろ苦デビュー。前日2軍戦で6回を投げたばかりとあって、「まさか投げるとは思わなかった。連投で腕が振れませんでした」と落胆する姿は、その後の運命を暗示するかのようだった。

 5月下旬までに3試合に登板し、4回5失点の5与四球と結果を出せず、2軍で出直しとなったが、期待の大きさから登板機会を多く与えられたことが、結果的に裏目に出る。

 8月に中3日で先発起用されるなど、酷使されるうち、肩を痛めてしまい、最速150キロを誇った速球も、130キロ台にダウン。翌94年は、2軍で防御率9点台と打ち込まれた。

 そして、97年オフに戦力外通告を受け、移籍先の西武、近鉄も1年限りで退団。02年まで米独立リーグでプレーを続けながら、日本球界復帰を目指したが、自慢の速球が甦ることはなかった。もし育成に実績のある球団に入っていれば、別の未来が開けていた可能性もあったはずだ。

 1年先輩の南も、日本ハム入団後は肘の故障で1勝もできず、天理のツインタワーは、いずれも悲運に泣いた。

 2000年代以降も、05年に大学ナンバーワン左腕として自由枠で横浜入りした192センチの那須野巧、センバツで早稲田実・斎藤佑樹(現日本ハム)と延長戦を投げ合った191センチ右腕のダース・ローマシュ匡(元日本ハム)らが、大きくはばたくことなく、ユニホームを脱いでいる。(文・久保田龍雄)

●プロフィール
久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2020」(野球文明叢書)。