昭和のプロ野球史を彩った名選手たちの雄姿は、私たちの脳裏に深く刻まれている。そんな名選手たちに、長い野球人生の中で喜びや悔しさとともに今も思い出す、忘れられない「あの一球」をライターの宇都宮ミゲルさんが振り返ってもらった。全4回の短期集中連載2回目は、ミスタースワローズこと若松勉さんに聞いた。
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チームが三番打者に期待するのは、一、二番打者が作った好機を点に結びつけること、あるいは好機を広げる打撃で四、五番打者へとつなぐこと。時には、膠着状態の試合で流れを変える巧打も求められるし、勝敗を左右する決定力、長打も欲しい。そんな期待に応えるためにはまずコンスタントな高打率が必要であるし、長打力も秘め、逆境に強いメンタリティも必要だ。こうした資質をすべて兼ね備え、長きにわたり、理想的な三番打者として機能し続けた代表格が若松勉であろう。十九年間の現役通算で打率3割1分9厘(二〇二二年十一月現在、6千打数以上の選手では歴代一位)、通算サヨナラ本塁打8本(二〇二二年十一月現在、セ・リーグタイ記録)などの記録は、その至高の打棒を十分に証明するものだ。身長168センチメートルの「小さな大打者」はなぜそこまで長短打を量産できたのか。まずは本人に、打撃における思想と技法について聞いていく。
「その試合の一打席目をとても大事にしていた。最初にヒットが出ると二本、三本といけるじゃないですか。だから一打席目は特に集中して気合を入れる。初球でも、追い込まれてもヤマは張らない。あとは基本的に変化球を待っていて、真っ直ぐがきたらそれに対応しようというスイング。イメージとしてはインコース引っ張るでしょ、真ん中はセンター方向、アウトコースはレフト方向にっていう素直な考え方ですよね。でもアウトコースはレフト前ヒットじゃなくて、インパクトの瞬間、レフトオーバーを狙ってね。だからアウトコースは当てるだけじゃダメで、上からバーンと振り切らないといけない」
■無類のバットスピードを武器に
バッティングの話から取材を始めると、熱のこもった言葉が次々と紡がれる。滑らかな口調は自信の表れとも感じられた。そして、その内容は汎用性の高い打撃の基本のようにも思えたが、よく考えれば実にユニークな部分も盛り込まれていた。筆者が特に気になったのは「変化球を待ち、直球にも対応する」という部分である。速いストレートを想定しておき、緩い変化球がきても対応できるようにしておくというのが一般的な打者の対応に思えるからだ。
「直球を待っている時、変化球がきてそれに対応しきれず泳がされることってあるでしょ? じゃあ、最初から変化球を待ってて、速い球がきたらバットスピードで打てるような打撃をしていこうかなと思うようになったんです。この待ち方は確かに普通とは逆。速い球がくるでしょ? でもバットスピードがあれば、キャッチャーミットへ収まる直前にバットを出してバーンと打っても、三塁ベースの横を抜けるような強い打球になったりもする。このバッティングができるようになって打率が上がっていったという感じかな」
打者として最大の強みだと本人も認めるバットのスピード。その速さにどれだけ自信を持っていたかを聞くと、しばし考えた後、こう答えた。
「うーん、王(貞治)さんはやっぱりすごい打者でしたよね。軸足に力入って、構えだけで迫力あったし。だけど僕とは全然違う打ち方だし、王さんはバットを払う感じでとにかく引っ張るというスタイル。そうだねえ、バットスピードってことでいうと、俺は誰にも負けてなかったかもわからないですね」
ヤクルト入団以前はガンガン引っ張る打撃が好きで長打を持ち味としていた若松。その調子でプロ入りしたものの、初めてのキャンプで「そのままでは通用しない」と指導された。
「プロの速い球を引っ張っていたら全部、ファウルになっちゃって。どうすればいいですかとコーチの中西(太)さんに相談したら、下半身を徹底的に鍛え、下半身で打つようにしなさいと言われてね」
そこで中西コーチは相撲の力士が稽古で行う鉄砲、すり足、四股などで下半身を鍛えるよう指導。畳の間で足の裏が擦り切れるほど、力士ばりの稽古がひたすら続いた。中学生の時からノルディックスキーの優れた選手だった若松。この稽古で強靱な下半身がさらに鍛えられていく。
「インパクトの瞬間は腰を一塁方向にクルッと回転させるんじゃなくて、キャッチャー方向へひねるようなイメージ。中西さんから教わったツイスト打法というんです。弓を引っ張って射るという感覚ですかね。これが上手くできるとスイングが大きくならないし、両サイドの速い球もさばける」
■攻略した相手、できなかった相手
打率3割を超えたシーズンはなんと十二回。だが、これほどの打者でも打ち崩せなかったピッチャーが当時のセ・リーグには数人ほどいたという。そんな話題を向けると即座に挙がった名前が江夏豊だった。
「そうねえ、打てなかったのは江夏だねぇ。真っ直ぐ速いし、コントロールはいいし、とにかくボールが重い。アウトロー、インローにすごいコントロールでドスンとね。ある時、広島戦で江夏から左中間の良い当たりを打ったことがあったんですよ。これはもう絶対抜けるなって思いながら走ったんだけど、外野に捕られて。あいつのボールだけは打ってもなんかインパクトの瞬間に戻されるっていう感覚。嫌だなと思っちゃったら打てないから、負けたくないって感じで打席に行くんだよ。あいつの時だけはインサイドは捨てて、変化球じゃなく真っ直ぐを待って」
自分の「型」を崩さなければならないほど、手強い相手だった江夏。一方、他のピッチャーはことごとく攻略したという、この偉大な打者がどのような相手とどう対峙したかについて聞いていく。
「思い浮かぶのは堀内(恒夫)の大きなカーブ。相当、このカーブにやられたんだけどよく考えたら全部、引っ張っちゃってたんだよね。それでアウトコースはもちろんインコースもレフト方向に打ってみようって。そういう考えでレフトへのホームランを打ってからは、堀内も苦手じゃなくなってきた。あとは西本(聖)のシュートかな。アウトコースいっぱいに落ちてくるシュートなんだけど、4打席すべてが引っ掛けてセカンドゴロっていう時もあったほど。これも、この野郎って感じで無理矢理引っ張っちゃってたんだよね。それである時、ゴルフ大会があったの。そこに川上(哲治)さんが来ていてね。俺に言うんだよ。『お前、あんなバッティングじゃダメじゃないか。シュート引っ掛けるくらいだったらフォアボールでいいんだよ』って。それからですよね。西本と当たっても打席で少し余裕ができるようになった。フォアボールでいいと思えば苦手じゃなくなったというわけ」
■二夜連続の劇的な幕切れ
では本稿のテーマである、記憶の中に残り続ける一球とはどのようなものだったのか。その瞬間について聞いていくうち、若松という打者の持ち味が打率の高さだけではなく、勝負強さでもあったことが思い出された。
「俺ね、二試合連続で、しかも代打でサヨナラホームランていうのをやってるの。それがやっぱり一番、頭に残ってるかな。二本とも右中間、同じような場所に入って」
つまり正確には記憶に残る一球ではなく、二球ということになる。一九七七年六月十二日と十三日、舞台はともに神宮球場でのヤクルト対広島戦。十二日は十回裏に広島のピッチャー、池谷公二郎から。十三日は九回裏に松原明夫から。どちらも遊撃手である渡辺進の代打として登場という、まるでリピート映像のような二夜連続のホームランを放ったのだ。
「その頃、ちょうど脇腹に肉離れがあって、四打席は難しい状態だった。だからスタメンを外してもらって、一振りならいけますって。それでテーピングを胴の周りにグルッと巻こうと思ったんだけど、普通のテープだと固定されすぎちゃって身体全体が動かないんですよ。じゃあってことで自分で考えて、自転車のタイヤ用チューブを買ってきて、それを割いて身体に巻くといい感じだった」
二夜ともに、代打の声が掛かればすぐにチューブを巻いて打席に向かえるよう、心身の準備をしていた若松。そしてどちらの代打の場面においても、自分にしかわからない大きな制約があったと話を続けた。
「一振りで決めないといけないっていうのがあった。肉離れだから空振りしたり、何度も振るっていうのが本当にできない状態。だからね、偶然なんだけど、どちらの打席も狙い球をスライダーに絞って。一球で仕留めてやる!と思いながら」
言葉通りに二本のホームランはそれぞれ一振りで達成され、空振りやファウルなどはなし。まさに一撃必殺、それも連夜の代打サヨナラホームランであったのだ。
「ホームランを狙っていたわけじゃなくて。しっかり打ってなんとか塁に出ようと考えていた。だけどね、代打って結構難しいですよ。勝負どころが分かってないと、行けって言われた時にピタッと気持ちを合わせられないからね」
ちなみに二試合連続代打サヨナラホームランを達成したのはプロ野球史上、若松と豊田泰光(一九六八年に記録)の二名。通算代打サヨナラホームランとなると若松、高井保弘の二名が3本で日本記録となっている。そう、若松は一九八七年から代打の切り札として活躍し、引退までの三年間、好機で快打を連発。通算での代打打率は3割4分9厘で歴代一位(2リーグ制後、300打席以上のランキング)と、滅法チャンスに強い打者でもあった。
■打ちたかった、あと一本のアーチ
都合十九年間、ヤクルト一筋に長短打を放ち続け、四十二歳で現役を引退した若松。ここまで現役を続けられた理由について問うと、こんなエピソードについて語り始めた。
実は、そのおよそ六年前、三十六歳の時に引退しようと決めかけたことがあったというのだ。
「その頃、身体が動かないなと思って辞めようかと。それで、ヤクルトでバッティングコーチをやっていた町田行彦さんに相談したら、王さんに一度会ってみなよと言われてね。都内の寿司屋でね、王さんと二人っきりで相談する機会があったんですよ。そうしたら王さんが俺にこう言ってくれて。『プロに入るのが遅かったからその分、もう一度、下半身を鍛えたらどうか。まだまだ、できるよ』と」
世界の王からこのような勇気づけられる言葉をもらい、心変わりに至ったという若松。結局、この寿司屋での出来事を経て、以降、六年間も現役続行することになっていった。同じ左の偉大な打者として、王の言葉はそれだけ信頼できる重みを持っていたということなのだろう。
高校時代、社会人野球時代、そしてプロ入りしてからも優勝とは無縁だったが、一九七八年、念願のセ・リーグ優勝を果たした際には歓喜のあまり、同僚の大矢明彦と抱き合いながら号泣。結局、現役、一軍打撃コーチ、二軍監督、一軍監督と立場を変えながらも、ヤクルトに在籍中は五度の日本一を経験し、果たしてやり残したことはあるかと最後に聞くと、本人はニコリと笑いながらこう答えた。
「そうね、やっぱりホームラン。俺にはね、王さんを抜けるチャンスがあったの。通算サヨナラホームランの数が8本で王さんと並んでたんですよ。だってホームランの記録で王さんに勝てるなんてサヨナラくらいしかないじゃない。そう考えたら力んじゃって全然、打てなくなっちゃった(笑)。記録としては並んでるんだけど、あと一本ですよ。一本打てば王さんより上にいけた。これは、打ちたかったな」
卓越したミートの技術と、強烈なパンチ力。この打者が終始、ホームランだけを狙い続けていたら、一体、どれほどの頂に到達できたのか。そんな夢想が頭を駆け巡った。(次号は福本豊さんです)
※単行本『一球の記憶』は、村田兆治、山田久志、石毛宏典、高橋慶彦(敬称略)など合計37名のインタビューを加えて2月下旬に朝日新聞出版から発売予定です。
※週刊朝日 2023年1月27日号