踏切の名称に惹かれて何十年の、いわば「踏切名称マニア」である今尾恵介さんが、全国の珍名踏切を案内してくれる連載。鶴見線はその成り立ちから、沿線に会社名踏切が多くある。支線が多いのも鶴見線の特徴で、各駅から伸びている支線にはさまざまな歴史や特徴があり、マニアならずとも楽しめる沿線だ。今回は鶴見駅を出発し、安善駅まで歩いてみた。



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 戦前から日本の近代工業をリードしてきた京浜工業地帯。その心臓部で昔から活躍してきたのがJR鶴見線である。この鉄道はそれら工場群に出入りする原料や製品を運び、従業員たちが職場へ行き来するための私鉄・鶴見臨港鉄道として建設された。このため必然的に踏切には会社名が目立つ。

●まずは旭ガラス踏切

 鶴見駅から数えて最初の「会社名踏切」は、3つ目の弁天橋駅の手前にある。首都圏にこんなにかわいらしい木造駅舎が残っていたかと驚く存在だが、周囲の工場群と意外にマッチしている。名前は旭ガラス踏切。正式な会社名は「旭硝子株式会社」であるが、踏切名の命名はけっこういいかげんで、それがまた“良い加減”であったりする。踏切を渡ってすぐが同社京浜工場の守衛所で、一般人は勝手に中に入れない。

 線路伝いに次の浅野駅へ向かいたいところだが、工場敷地を通れないので北側の産業道路をぐるりと迂回する。浅野駅で分岐する海芝浦支線は、東芝京浜事業所の巨大な工場の敷地へ入っていく路線で、同社の従業員専用線のようなものである。

 終点の海芝浦は改札イコール会社の入り口で、部外者が改札を出られない駅として有名だ。今では頻繁に訪れるマニアのために、東芝が好意でミニ公園を設け、そこで一服して折り返し電車に乗るのが愛好家たちの行動様式となっている。

 歩いて終点を目指したいところだが、浅野駅を出てすぐの末広第二踏切に掲げられた「この道路は東芝の私有地です。一般車の立入及び不法駐車、駐輪を禁止します」云々の文言を読めば止まらざるを得ない。踏切名となった末広町は東芝の工場を含む一帯で、町名は大正期に埋め立て事業を行った鶴見埋立組合の社長・浅野総一郎の家紋「末広」にちなんだものだという。ちなみに浅野駅も浅野氏の名字が由来。ついでながら、鶴見線の終点である扇町という駅名も家紋が由来である。

 次の安善駅も線路伝いには行かれず、北側を迂回(うかい)した。小さな運河を渡って線路際の東芝GEタービンサービス(電力用タービンの補修業務)の工場をかわして南下、安善駅前に出る。安善とは実業家・安田善次郎の省略形で、駅手前の踏切は「安善通り」踏切である。実は昭和18(1943)年に鶴見線として国有化するまで、安善駅は安善通駅という名称だった。つまり、ひそかに過去の駅名を名乗る踏切なのだ。

 安善駅からは構内側線が南下している。その先に、かつては浜安善という貨物駅が存在したが、昭和61(1986)年に廃駅となり、線路だけが残った。付近には米軍の油槽所があって、横田基地のジェット燃料などを今でもここから運んでいる。訪れた時も安善駅の側線には青緑色のタンク車が11両ほど繋いだ列車が停まっていた。米軍油槽所の東隣は今も昭和シェル石油だから、安善駅の少し先の運河を渡った先は「石油島」と呼びたくなるほど石油関連施設に満ちている。

 この構内側線は国有化以前の鶴見臨港鉄道時代には「石油支線」と呼ばれ、浜安善駅も「石油駅」と称していた。旅客列車も昭和5(1930)年から同13年までの8年間ながら走っていたので、「次は〜石油、石油、終点でございます」なんていうアナウンスが毎日繰り返されていたのだろう。

 解せないのは、米軍油槽所のゲートのまん前が「日石踏切」であったこと。よく見るとNAVSUP(横須賀米海軍補給センター)の小さな看板が掛かっている。横浜市基地対策課のHPによれば、この「鶴見貯油施設」は昭和27(1952)年11月21日に「民間の石油会社の施設が米軍に提供された」となっている。

 手元にあった同23年修正の1万分の1地形図「安善町」を確認すると、エリアI(南側)が「日本石油会社製油場」、エリアII(北側)が「日本石油会社貯油所」になっていた。エリアIIにある「日石踏切」は、昭和27年までの施設を名乗り続けているのだが、「提供」時期はまさに朝鮮戦争の最中なので、その戦況と深く関係しているのかもしれない。

 貨物支線や専用線が何を運ぶかは、時代背景によって当然ながら変わっていく。ここ「石油島」の貨物はもちろん石油が中心であるが、戦勝国アメリカが日本を武装解除してわずか数年で国際情勢は変わり、今度は日本を「防共の砦」として活用していく戦略に転換が行われた。踏切もそれに翻弄されながら、その名前が変わらなかった理由は、「朝鮮戦争中にとりあえず貸しただけ」だったからなのか。

今尾恵介(いまお・けいすけ)
1959年神奈川県生まれ。地図研究家。明治大学文学部中退。中学生の頃から国土地理院発行の地形図や時刻表を眺めるのが趣味だった。音楽出版社勤務を経て、1991年にフリーランサーとして独立。音楽出版社勤務を経て、1991年より執筆業を開始。地図や地形図の著作を主に手がけるほか、地名や鉄道にも造詣が深い。主な著書に、『地図で読む戦争の時代』『地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み』(白水社)、『鉄道でゆく凸凹地形の旅』(朝日新書)など多数。現在(一財)日本地図センター客員研究員、(一財)地図情報センター評議員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査