心に残る小説の一場面。あのとき主人公が嗅いだのは、どんなにおいだったのか。ソニーの新商品は文章、音楽、映像に続き、香りまで持ち歩ける。

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「本当にいままでのひとの中で、あの貧乏くさいツネ子だけを、すきだったのですから。」



 太宰治の「人間失格」の中で、主人公の葉蔵が心中を企てながら、一人死なせてしまったカフェーの女給ツネ子を思って涙する場面の台詞だ。そんなツネ子は一体、どんなにおいがしたのだろう──。

 ソニーが6月に売り出した新商品が、ヒントをくれるという。一体どういうこと?

 その商品とは、「AROMASTICカートリッジ 文学の香り 太宰治」。「AROMASTIC」はソニーが2016年に正式販売を始めた商品で、コンパクトな本体にカートリッジを取り付ければどこでも「シュッ」と様々な香りを楽しめる。太宰治は、専用カートリッジの新シリーズ「香り×エンタテインメント」の第1弾だ。

 で、冒頭のツネ子はどんなにおいだったのか。今ならスメハラ確定の毒々しいおばちゃま香水……と思いきや、その香りは意外なほど上品だった。

「葉蔵がツネ子を思う場面には、ヘリオトロピンという合成香料の香りを使いました。少し前まで高価な輸入品だったヘリオトロピンが国内で合成されるようになり、この時代に国内生産量が急激に伸びたという論文を見つけたのがきっかけです。女給のツネ子も、安価になったヘリオトロピンの香水を愛用していたと推測しました」

 そう話すのは、ソニー「OEプロジェクト」担当の藤田彩さんだ。ちなみにOEとは、オルファクトリー(嗅覚)・エンターテインメントの略。ソニーにとっては香りも、映像や音楽、ゲームなど、さまざまなエンターテインメントの一つらしい。

「文学の香り 太宰治」には葉蔵が居候した雑誌記者シヅ子の高円寺のアパートの香りやら、錆びた鉄格子と消毒液が混じり合う入院先の病院の香りなど5種類が収められ、太宰ファンなら悶絶必至だ。

 ちなみにシヅ子の部屋は、関東大震災後に建ったばかりの木造アパートで、「新しい畳と雑誌の香り」をブレンド。ポテトチップスとアマゾンの段ボールが香る令和の雑誌記者である自分の仕事部屋にはない、情緒がいっぱいだった。

 アロマテラピーというと、精油を垂らした水をろうそくで温めたり、ディフューザーで蒸発させたり。筆者のような短気の面倒くさがりには、準備がかえってストレスになることも。また空間を香りで満たすため、家族のいる部屋や職場では楽しみにくいという難点もあった。

 OEプロジェクトチームが開発したAROMASTICはそんな弱点を克服し、いつでもどこでも、たった一人でアロマが楽しめるようにした。音楽を街に持ち出した同社の発明品、ウォークマンの「嗅覚版」とも言えそうだ。

 同チームでもメンバーのほとんどが愛用しているという。

「例えば会議が煮詰まってきたりすると、あちこちでメンバーが使い始めます」(藤田さん)

「文学の香り」は、気分転換という従来の使い方に次ぐ一手だ。自分だけに秘密を告白してくれているような文章で、「作品と読者との距離感と、香りと人との距離感が近い」(同)ことから、「人間失格」が第1弾に選ばれた。

 香りは録音したり撮影したりできず、表現するための形容詞も少ないため、「○○のような」などと例えるしか方法がなかった。そんな未開発のエンターテインメントながら、インパクトは強烈。4DXなど、映像と香りを組み合わせて新しい表現を生んだり、オリジナルの香りでフロントなどを満たし、ブランディングに役立てたりするホテルや企業も増えている。

 鼻さん、これまで加齢臭だの、口臭だの、イヤなにおいで苦労ばかりかけてごめん。これからはエンターテインメントで鼻孝行するから、待っててね。(ライター・福光恵)

※AERA 2019年7月15日号