JR山手線30番目、西日暮里駅開業以来49年ぶりの新駅として、2020年3月14日に暫定開業した高輪ゲートウェイ駅。コロナウイルスの影響で、“新駅フィーバー”も開業直後だけ。開業してすぐに行われる予定だった駅前イベントが4カ月遅れの7月14日から規模を縮小して始まった。隈研吾(くま・けんご)氏デザインによる特徴的な外観をもつ高輪ゲートウェイ駅、計画時から山手線最後となる新駅とされる。その理由を山手線の歴史とともにひも解いてみたい。



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■既存区間への増設“新駅”だった池袋

 いまのところ山手線34.5キロメートル区間に、今後新たな駅が設置される構想・計画が定められていないことから、高輪ゲートウェイは“山手線最後の新駅”とも称されている。

 現在の山手線電車が運行されている区間は、正式には東京〜品川間が東海道本線、田端〜東京間が東北本線に属しており、厳密な意味での「山手線」区間は品川〜渋谷〜新宿〜池袋〜田端間になる。

 いまの山手線でいちばん最初に開業した駅は品川で、1872(明治5)年の新橋(のち汐留<しおどめ>、廃止)〜横浜(のち桜木町)間に、日本で初めての鉄道が開業したときになる。1883(明治16)年には日本鉄道(現・東北本線)の起点駅として上野が開業。ただしこの時点で、上野〜王子間に駅は設けられていなかった。

 1885(明治18)年にはやはり日本鉄道が品川線の名称で、現在の山手線の西側と赤羽線(埼京線)にあたる品川〜赤羽間を開通させた。このとき開業したいまの山手線にあたる区間の途中駅は、目黒、渋谷、新宿、目白のみ。現在ではJR東日本・西武鉄道・東武鉄道・東京メトロ4社が乗り入れる一大ターミナル・池袋さえ存在しなかった。

 以降、いまの山手線の駅開業の歴史をたどると、1890(明治23)年に秋葉原、1896(明治29)年に田端、1901(明治34)年に大崎、恵比寿、1903(明治36)年に池袋、大塚、巣鴨、1905(明治38)年に日暮里、翌1906年に原宿、1909(明治42)年に代々木(中央本線の列車は1906年から停車)、新橋(開業時は烏森)、田町、浜松町、翌1910年に有楽町、高田馬場、駒込、1914(大正3)年に新大久保、東京、1919(大正8)年に神田、1925(大正14)年に御徒町と続いた。

 原宿や高田馬場など、いまでは主要駅となっている各駅も、高輪ゲートウェイ同様、既存区間に増設された“新駅”だった。

■地下鉄接続のため造られた“最後から2番目”の新駅

 新駅が設置されるおもな理由として、新路線の開業に伴うものはもちろん、沿線人口の増加が挙げられる。これらによる山手線の駅開業は大正期でいったん落ち着いたが、71(昭和46)年、御徒町駅開業以来“46年ぶりの新駅”として、29番目となる西日暮里が田端〜日暮里間に開業した。

 西日暮里駅の設置地点は、69(昭和44)年に北千住〜大手町間が開業した営団地下鉄(現・東京メトロ)千代田線との交差部にあたり、接続駅として地下鉄西日暮里駅より1年4カ月遅れての開業だった。

 鉄道事業者は多額の費用がかかり、列車のスピードダウンを招く新駅の設置を嫌う傾向があるとされる。そのため、現在では新駅が設置される場合、地元自治体などによる応分の費用負担が条件とされることが多い。

 西日暮里駅の場合も、国鉄(当時)は山手線に接続用の新駅を設置せず、千代田線は直接既存の日暮里駅に乗り入れる。または地下鉄西日暮里駅と日暮里駅との間に地下通路を設けるとの案も検討されたという。

 結局、営団側は民有地の地下を通る区間が増える日暮里駅経由のルートを断念し、都道の道灌山(どうかんやま)通り直下を通る現在のルートを選択。国鉄も常磐線緩行線(各駅停車)との相互直通乗り入れが予定されていた千代田線乗客の利便性などを考慮し、西日暮里駅の新設に踏み切った。

 これが“山手線最後から2番目の新駅”の設置理由だった。そのため、田端〜西日暮里間は0.8キロ、西日暮里〜日暮里間はわずか0.5キロと、山手線区間では最も短い駅間距離となっている。

■新駅と周辺再開発の効果は約1兆4000億円

 一方、“最後の新駅”高輪ゲートウェイの建設理由は、広い意味では「沿線人口の増加」にあたる。

 山手線を一周してみればわかるが、沿線の左右にはびっしりとビルが建ち並び、武蔵野台地東端部の複雑な地形を縫って走るため、目黒駅付近や巣鴨〜田端間などは切り通し、渋谷駅は谷底。田端〜上野間も西側には本郷・上野台地の崖線(がいせん)が迫る。もちろんそれぞれの区間の上部にも、市街地がいっぱいに広がっている。

 山手線沿線は都市化し尽くされ、新たな駅を設置できるような広い空地は存在しない。近年ではわずかに田端付近と、田町〜品川間に車両基地が広がっているだけだった。

 田町〜品川間には、かつて寝台特急「ブルートレイン」などの運行にあたり、“名門”と称された東京機関区、品川客車区、田町電車区などの施設が設けられていた。国鉄分割民営化以降、JR東日本の東京総合車両センター田町センターに再編されたものの、広大な敷地はほぼそのまま引き継がれていた。

 JR東日本は車両基地機能を東側(海側)に集約することで、都心部の一等地に計13ヘクタールもの再開発用地「グローバルゲートウェイ品川」を生み出した。2018(平成30)年9月、JR東日本は“山手線30番目の新駅”を含む一帯の再開発計画を「品川開発プロジェクト(第1期)」と名づけ、その概要を発表した。
 
 それによると、新駅の本開業を含む全体の完成は2024年度を見込み、東京都港区港南・芝浦・高輪・三田地区にわたる計9.5ヘクタールに、4つの街区が設けられる。最も北側(田町寄り)の1街区には地上45階(高さ約173メートル)の住宅(806戸)・教育施設、2街区には地上6階(45メートル)の文化創造施設、3街区には地上31階(167メートル)の業務・商業・生活支援施設、南端部の4街区には地上30階(164メートル)のホテル・コンベンション施設などが建ち並ぶ。

 まさに「新しいまち」が、山手線沿線に誕生することになる。その経済効果は約1兆4000億円にも及ぶと見込まれている。

 車両基地があった関係で田町〜品川間の駅間距離は2.2キロと、それまでの山手線29駅の平均駅間距離である約1.2キロを大きく上回っていた。高輪ゲートウェイと田町の間は1.3キロ、品川との間は0.8キロと、いずれも西日暮里〜日暮里間を上回り、山手線の平均駅間距離に近い。

 高輪ゲートウェイは、駅がほぼ1キロ前後の間隔でバランスよく並ぶ山手線に欠けていた、“最後の駅ピース”を埋める存在ともなった。もともとJR東日本の所有地に設置されたため、駅新設のための用地買収費用もかからず、新たな利用客の純増も見込める。地形や周辺の状況も含め、沿線にはここ以外にすべての条件を満たせる新駅候補地は、もはや見当たらない。

 高輪ゲートウェイは、まさに“山手線最後の新駅”となるべき存在だった。