世界的に人種や宗教などによる差別が話題になっている。あまりに広大なテーマで、これについて私には語る能力がまるでないが、日本国内の、なかでも歴史において宗教は為政者たちにとって常に頭を悩ませる問題だったようだ。一方で、なぜ日本にキリスト教をはじめとした一神教が広く根付かなかったか─といったテーマで多くの論がなされているが、これは、これら宗教を排除した為政者の力というより、日本人が持っている不思議な処世観によるところが大きい、と私は考えている。



●比叡山の焼き討ちが意味するもの

 260年余り続いた江戸時代の太平は、徳川家康が宗教家たちとうまく付き合い利用したことに成功の一部があると言われている。そういう面からいえば、織田信長は最も宗教家たちと対立した為政者と言えるだろう。

 信長の宗教弾圧の象徴とされているのが、元亀2(1571年)の比叡山焼き討ちである。比叡山とはのちの浄土宗の開祖・法然、浄土真宗の開祖・親鸞、日蓮宗の開祖・日蓮、曹洞宗の開祖・道元、臨済宗の開祖・栄西などが修行をした場所であることから、日本仏教の母山とも言われ、最澄が開いた延暦寺という天台宗の総本山のことを意味する。延暦寺ではこの事件のことを「元亀の法難」と呼び、歴史の悲劇のひとつとして語り継いでいる。現代に生きる私たちは、「神聖な神社仏閣に対してなんたることを!」と考えがちだが、時代背景からはさまざまな意見が出されていることをご存じだろうか。

●戦国時代までの大寺は大名と同等の勢力

 織田信長は、戦国時代をまさに終わらせようとしていた人物である。多くの敵を力でねじ伏せ、ある時は謀略を用い、内部からの崩壊を仕掛けたりもした。この時代、大寺は大名に匹敵するほどの力を持っていた。加えて、宗派同士の争いを京の町中で起こし、あまつさえ対立する宗派の信者たちの家屋に火をかけたりしていたのだ。このため、寺の勢力維持のために僧侶たちは武装し、仏罰を恐れて満足に抵抗できない市井の民たちに対してやりたい放題のありさまであった。一方、こんな僧侶たちの暴挙とこれを許す富豪たちを、京入りした信長は嫌い、むちゃな要求を重ねた。京で富を謳歌していた豪商や僧たちは信長を見くびり、あろうことか寺は信長に対立する戦国大名に肩入れするのである。

●石山本願寺との10年戦争

 比叡山焼き討ちの前年、以後10年も信長と対立する石山本願寺が信長軍に戦争を仕掛けた。元亀元(1570年)9月12日(旧暦)のことである。石山本願寺は10年の争いの中で衰退し、豊臣秀吉の時代に寺領を明け渡す。やがて宗派内で強硬派と穏健派が対立、徳川家康の時代に東本願寺と西本願寺という目に見える形で分裂をした。本願寺は、武将たちに危険な宗教とみなされたのだろう、徳川家康は三河領内で本願寺の信仰を禁じ(20年後に解禁)、薩摩の島津藩に至っては明治時代を迎えるまで禁教であった。

●2人の天下人の怒りを買った比叡山

 さて、翌年の9月12日(旧暦)に信長は延暦寺の焼き討ちを命ずる。この時の信長軍が対峙していたのは、挙兵した三好三人衆と石山本願寺、そして信長を裏切った浅井・朝倉連合軍で、敗走した浅井軍をかくまったのが延暦寺だったのである。信長の和睦の提案を延暦寺は拒否、一晩のうちに比叡山は3万の兵に囲まれたという。信長軍が陣を置いたのが比叡山の麓にある園城寺(おんじょうじ/別名・三井寺)、ここは延暦寺のありように不満を持った最澄の弟子たちが袂を分かって、延暦寺の創建から100年もしないうちに起こしたお寺である。園城寺の創建以来、延暦寺との間で数十回に及ぶ焼き討ちなどを含めた争いが続いていた因縁の関係を信長は利用したのだ。皮肉なことに延暦寺は天下人により焼き討ちされ、園城寺は守られるのだが、次代の豊臣秀吉の怒りを買った園城寺は、ほとんどの伽藍と寺宝を破棄され、逆に延暦寺へ金堂(本尊の安置殿。本堂を意味する)の移転を強要された(現在の延暦寺・西塔[さいとう]の釈迦堂)。延暦寺と園城寺は、2人の天下人にしばらくは立ち直れないほどの打撃を与えられたのである。

●延暦寺焼き討ち話の効果

 最近の研究では、信長の比叡山焼き討ちの被害は、過去に言われるほどのひどさではなかったのではないかとも言われている。宗派同士の争いの中で、延暦寺はすでにかなり荒廃していたとも考えられていて、「焼き討ちから逃れられたのは西塔のはずれに建つ瑠璃堂だけ」と伝えられるが、すでにそれほどの伽藍が残っていなかったとの研究もある。信長側も被害を大きく語り次ぐことで、他の大寺に対して恐怖心を与える効果を狙っていたのかもしれない。

 ところで、延暦寺から逃げ延びたものたちは甲斐の武田信玄を頼ったという。そういえば、信玄亡き後、武田勝頼は信長軍により悲惨な最期を迎える羽目に陥った。これにより延暦寺の主流の末裔はことごとく絶たれたに違いない。根本中堂(総本堂)の再建は徳川家光の時代になってからである。

 それでも、実際に信長は比叡山に関連する一帯のお寺を次々と焼いた。琵琶湖の対岸に位置する子院にさえ火をかけたのである。ところが、のちに比叡山の宝物殿と言われることになる聖衆来迎寺だけは見逃したのだ。浅井・朝倉軍との戦いによって戦死した森可成(森蘭丸の父)の墓があったためと伝わる。この付近で最期を遂げた可成の亡骸を、天台宗のお寺でありながら当時の住職が密かに寺内に運び込み、葬ったのだという。このような配慮を見せた信長が、果たして女子供を含めた数千人の人たちの首を刎ねただろうか。

 石山本願寺が信長に戦いを挑んだ日と同じ日に、延暦寺に火をかけたのはやはり信長独特の演出があったような気がしてならない。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)