哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。

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 香港警察が国家安全法違反の疑いで周庭氏ら民主派活動家たちを逮捕したニュースが世界を駆け巡った。翌日には釈放されたが、中国政府はこの逮捕劇を大々的に報じることで、これからは香港においても「任意の人物を、任意の時に、任意の期間勾留できる」ことを誇示してみせた。

 北京はどういう目算があってこのような強権的な態度を採ることにしたのか、正直言って、私にはよくわからない。

 たしかにパンデミックによってアメリカが国際社会の指導力を失い、それによって西太平洋に政治的空白が生まれていることは事実である。だからこそ、いちはやく感染制御に成功した中国は、このあと豊富な医療資源を外交カードに使って、各国に対して幅広い医療支援を行うことで米国に代わって国際社会におけるグローバル・リーダーシップを発揮する……という「医療外交による影響力の拡大路線」を採択するだろうと私は予測していた。

 私がもし中国国務院の役人だったら、ためらわず「医療支援の拡大とワクチン開発競争の勝利を最優先すべきだ」と上申しただろう。どう考えても、香港市民を弾圧したり、隣国の国境線を脅かして軍事的緊張を高めるよりも、人命を救う医療外交の牽引役となることの方が国際社会における中国の威信を高めるためには費用対効果がよいからだ。だが、北京はその「ソフトな外交」を選ばず「戦狼外交」を選んだ。なぜ、北京は国際社会に恐怖と不信を喚起することを優先したのか? それについて私は誰からも説得力のある説明を聴いていない。

 あるいは中国国内で習近平独裁に対する不満が想像以上に高まっているのかも知れない。現に、党中央を批判した知識人や実業家が次々と処分されている。多くは「紅二代」と呼ばれる建国の元勲たちの子弟である。体制の受益者が体制批判をしていることの意味は重い。

 政権基盤が安定している時にはできる譲歩が、不安定になるとできなくなる。香港民主派への弾圧が「いかなる政府批判も許されない」という国内向けのメッセージだとすると、中国政府のガバナンスには微妙な翳りが生じている可能性がある。

内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。思想家・武道家。東京大学文学部仏文科卒業。専門はフランス現代思想。神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数

※AERA 2020年8月31日号