「おや?」と思って立ち止まる。そしてはじまる旅の迷路――。バックパッカーの神様とも呼ばれる、旅行作家・下川裕治氏が、世界を歩き、食べ、見て、乗って悩む謎解き連載「旅をせんとや生まれけむ」。第31回は、タイのバンコクの歓楽街の現状について。



*  *  *
 運営しているYouTubeのチャンネルで、コロナ禍のアジアの街の動画を配信している。現地に住む知人が動画を送ってくれる。

 バンコクの知人が撮った動画を前に悩んでしまった。バンコク有数の歓楽街、ソイ・ナナの夜である。

 バンコクにはいくつかの夜の遊び場がある。ソイ・ナナというエリアは、欧米人やアラブ系の人々向け。大型のバーやマッサージ店、ケバブというアラブ料理の店などが並び、夜も眩しいほどだった。ラマダンというイスラム教徒の断食期間には、裕福なアラブ系の人々であふれかえっていた。バンコクに行けば、ラマダンを破っても……という彼らの拡大解釈をバンコクは平気で受け入れていた。

 コロナ禍で火が消えたようだという噂は聞いていたが、ここまで暗くなるとは……。シャッターをおろした店も多い。

 タイは新型コロナウイルスの感染を受けて3月26日に非常事態宣言を出した。それに先立つ3月18日、バーやパブなどを強制的に封鎖。その後、感染は収まり、非常事態宣言は継続しているものの、7月1日からは、ほぼすべての店が開店できることになった。

 しかしソイ・ナナの店の多くは閉まっている。よく見ると、店じまいしたところもある。諦めてしまったのだ。

 理由はふたつあるといわれる。ひとつは空港閉鎖。年間4000万人ともいわれる観光客が訪れるタイ。いまはほぼゼロの状態だ。外国人、とくに欧米やアラブ圏からの客に依存していたソイ・ナナの飲食店は厳しい。

 もうひとつは、見え隠れする軍事政権の思惑だ。コロナ禍に乗じて外国人向け歓楽街や風俗店を一掃しようとする噂がソイ・ナナで飲食店を経営するタイ人の間で広まっていた。

 プラユットが率いる軍事政権は、バンコクをシンガポールのような街にしたいと思っているといわれる。しかしそれは表向きの話で、本音は開発独裁型政権。つまり権力を政権に集めていこうとしているとタイの識者は分析する。バンコクの路上から屋台を一掃したのはその政策のひとつだった。

 タイにはロックダウンや営業時間の短縮に対する店側への補償がない。店を存続させるには融資を受けるしかない。ソイ・ナナの歓楽街は消滅の危機に直面している。

 もちろん反発も多い。反対集会を防ぐために非常事態宣言を延長しているという噂のなか、8月16日には、1万人規模の反政府デモが起きた。そのなかではタイでは昔からくすぶっていた王室改革の主張も出てきた。

 暗いソイ・ナナを眺めるバンコクファンの日本人の気持ちも千々に乱れる。なんとか以前のバンコクに戻ってほしい。しかしコロナ禍が去ったとき、バンコクは違う街に姿を変えているかもしれないという不安がよぎる。

■ 下川裕治(しもかわ・ゆうじ)/1954年生まれ。アジアや沖縄を中心に著書多数。ネット配信の連載は「クリックディープ旅」(毎週)、「たそがれ色のオデッセイ」(週)、「沖縄の離島旅」(毎月)、「タビノート」(毎月)。