2017年2月、マレーシアの空港で北朝鮮の最高指導者・金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長の長兄、金正男(キムジョンナム)氏が、顔に猛毒の神経剤VXを塗られて暗殺された。実行犯として逮捕されたのは、インドネシア人とベトナム人の若い女性。2人は見知らぬ男性の顔に「オイル」を塗って逃げるイタズラ動画の撮影だと誘われて実行したという。ライアン・ホワイト監督のドキュメンタリー映画「わたしは金正男を殺してない」(米国、1時間44分)では2人の女性の素顔に迫っているが、それでも謎は残る。AERA 2020年10月5日号では、この奇妙な暗殺事件について取り上げた。

[前編:芸能界を夢見た女性が暗殺犯に…「犯行時までテレビに出演していると信じていた」より続く]


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 なぜ暗殺事件は起きたのか。

 金正男(キムジョンナム)氏は金正日(キムジョンイル)総書記の長男。2001年に偽造旅券で日本に不法入国したことが発覚して以来、後継者レースから脱落し、国外生活を続けていた。

 北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」の高英起(コウヨンギ)編集長は、この事件について、「1987年の大韓航空機爆破事件以来、北朝鮮が久しぶりに手がけた政治的テロ事件であると同時に、北朝鮮の指導者一族の血統をめぐる家族内の骨肉の争いだろう」とみる。

 古今東西、世界の王朝で親子や兄弟が王位をめぐって殺し合う事件は枚挙にいとまがない。「金正恩氏は金正日氏の三男。母親違いの長兄・金正男氏は、建国の英雄である祖父・金日成(キムイルソン)主席にもかわいがられた『長男の長男』。正男氏自身が『政権には関心がない』と言い続けても、『白頭の血統』といわれる自分の正統性を脅かす存在である限り、抹殺しなければならなかったのではないか」

■いまだに工作活動の国

 衆人環視の国際空港ロビーでVXを顔に塗りつけるという奇妙な方法をとった理由についてホワイト氏はこう推測する。「北朝鮮は、誰にも知られずひそかに金正男を殺すこともできたはず。あえてスペクタクル(見せ物)にすることで『反抗する者は、どこにいても逃がさない』と示し、世界の注目を集めたかったのではないか」

 高氏も「父の誕生日(2月16日)直前に殺害し、北朝鮮に君臨するのがだれかを世界に示した『公開処刑』といえる。国外での暗殺には、銃よりも薬物による毒殺のほうが持ち込みが容易だったという事情もあるだろう」とみる。北朝鮮のテレビで放送される勇ましい歌「朝鮮は決心すればやる」を引き合いに「工作員による国外テロ活動はここ数十年控えていたが『我々はやるときはやるんだ』と決意をアピールした」とも語る。

 2人は、手につけられたVXを犯行後に洗い流すタイミングが遅れたり、目や口などから体内に入ったりすれば、自分たちの命にも危険があった。口封じで殺される可能性もあったかもしれない。そうならなかった理由について高氏は「日本人拉致問題で日本の世論が怒るのを見て、北朝鮮は人権問題の重大性を学んだ。指導者の兄ですら無慈悲に殺す北朝鮮だが、他国人を手にかけると人権上の国際問題になりかねないことを懸念したのだろう」とみる。

 暗殺事件があった2017年、北朝鮮は核実験やミサイル発射を繰り返し、国際的緊張が高まった。しかし翌18年、金正恩氏は文在寅(ムンジェイン)韓国大統領との南北首脳会談やトランプ米大統領との史上初の米朝首脳会談に臨むなど、対話の姿勢に転じた。

「偉大な祖父にもできなかった首脳会談を実現させたことが、正恩氏の強い自信になったはず。大統領選でもトランプ氏の再選を願っていることだろう。バイデン氏が大統領になったら、パイプは途絶えてしまうのではないか」と高氏。

 映画については「北朝鮮がいまだに工作活動をしている国家であることを知るいいきっかけになる」と話している。(朝日新聞編集委員・北野隆一)

※AERA 2020年10月5日号より抜粋