韓国の文在寅大統領が、徴用工判決や慰安婦判決について頑なな対応を一転、軟化したような発言をした。果たして日韓関係は改善されるのだろうか。AERA 2021年2月8日号の記事を紹介する。



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 今、日韓両政府が固唾(かたず)をのんで、行方を見守っている発言がある。1月18日に行われた文在寅(ムンジェイン)韓国大統領の記者会見だ。文氏が、徴用工判決や1月8日の慰安婦判決によって損害賠償を命じられた日本企業や日本政府の資産について、「現金化されるのは、韓日関係に望ましいことだとは思わない」と語ったからだ。

 李俊揆(イジュンギュ)・元駐日韓国大使は「この発言は画期的だ」と語る。文氏はこれまで、三権分立を盾に司法判断には介入できないとの立場を繰り返していたからだ。関係筋によれば、文氏は記者会見のリハーサルを4度も行った。他の国政課題とともに、日韓関係についての発言も周到に準備されたもので、思いつきではなかったという。

 日韓両政府の関係者の証言をまとめると、確かに文政権には、関係改善の意思はある。大統領自身、会見で「努力をしているなかで、慰安婦判決の問題も加わって、困惑している」と語ったように、韓国は2019年半ばごろから関係改善を模索してきた。ただ、他の政策と同様、日本に対する思い込みの激しい独善的な手法が目立ち、改善の思いは空回りしてきた。

■日本がのめない提案

 文政権は19年6月から7月にかけ、当時の趙世暎(チョセヨン)第1外務次官や鄭義溶(チョンウィヨン)大統領府国家安保室長らを日本に派遣し、徴用工判決問題の解決策を探った。ただ、その際の提案は、日本企業と韓国企業が資金を出し合って元徴用工らを救済する財団をつくるとする「1+1」案や、さらに韓国政府も加わる「1+1+α」案など、日本が全くのめないものだった。

 日本政府関係者の一人は「判決を認めてしまえば、1965年の日韓請求権協定が破壊される。口を酸っぱくして説明しても、韓国側にはわかってもらえなかった」と語る。たとえ、企業や政府に実害が出なくても、いったん判決の執行を許せば、請求権協定の後に結ばれた数多くの日韓の取り決めの根拠がなくなってしまう。日韓関係の経験に乏しい文政権の幹部らに、この論理を理解してもらうのには骨が折れたという。

 それもそのはず、戦後の韓国の人々にとっての日本は、「経済援助のドナー」と「北朝鮮と戦うための反共の同志」という二つの顔しか見えなかった。いずれの顔も、北朝鮮と体制競争を繰り広げた保守政権が必要としたもので、文政権を支える進歩系の人々には関係のない世界だった。文政権の関心事項は、南北関係と保守との政治闘争の二つしかない。

 二つの問題を巡る状況の変化が、今回の文大統領の対日姿勢にも大きな影響を与えている。

 まず、南北関係の厳しい現状だ。文政権は22年5月の任期満了までに、もう一度南北首脳会談を行い、政権のレガシーを残そうと躍起だ。だが、北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)総書記は1月の党大会で、「現時点で、南朝鮮(韓国)当局に一方的に善意を示す必要はない」と冷たくあしらった。

■米新政権にアピール

 正恩氏はこの際、「(韓国が)我々の正当な要求に応え、北南合意を履行するために動き次第、対応する」と語り、米韓合同軍事演習にも言及。こうなると、南北関係改善には、米韓合同軍事演習の縮小や米国が難色を示す北朝鮮への大規模な経済支援が不可欠になる。

 韓国はできれば今夏の東京五輪・パラリンピックの機会に南北外交を展開したい考えだ。もちろん、新型コロナウイルスの感染拡大で五輪の開催も極めて不透明だ。それでも、日韓関係を改善できれば、日米韓協力を訴えるバイデン米新政権へのアピールにもなり、米国の協力を得やすくなると考えている。文大統領が1月21日の国家安全保障会議で、インド太平洋の秩序に言及したのも、日米が同地域を巡る戦略に強い関心を示しているからだ。

 もう一つが保守との闘争を巡る強硬派の退場だ。その代表例が、19年秋に起きた自身と家族を巡る不正疑惑で法相を辞任したチョ国(チョグク)元大統領府民情首席秘書官だった。チョ氏は検察改革のなかで、SNSなどを通じ、自分たちの政策に批判的な勢力に親日派のレッテルを貼った。

 チョ氏ら進歩強硬派は日本に関心があるわけではなく、国民が公然と支持しにくい「親日派」のレッテルを借用したに過ぎない。ただ、こうした発言が日本の反発を生み、さらに韓国も応酬するという悪循環を招いた。

 韓国大統領府はチョ氏が政権を去った直後の19年12月の日韓首脳会談で、首相官邸と大統領府による懸案解決のライン構築を打診。その後に大統領府外交政策秘書官が複数回、極秘に訪日するなど、対応が柔軟になってきていた。文氏が会見で「努力をしている」と語ったのは、こうした一連の変化を指したものだ。

■大統領の発言は重い

 では、文大統領の言葉通り、強制執行は行われず、日韓関係は改善していくのだろうか。

 確かに「王様と皇帝を合わせたくらいの権力」(大統領府元高官)を持つ大統領の発言は重い。韓国の法務省は司法当局との間で、強制執行回避の妙案を、女性家族省は元慰安婦らが強制執行しなくても満足できる方法を、それぞれ探るだろう。

 一方、やはり大統領府の高官だった人物の一人は「自分が見る限り、下の連中にそれほどやる気は感じられない」と語る。その根拠は、最近の日本がらみの一連の人事にあるらしい。

 一人は1月22日に来日した姜昌一(カンチャンイル)駐日大使だ。姜氏は赴任前後、周囲に「大統領は本気だ」と触れ回っている。同時に、韓国メディアによれば、日本が15年の日韓慰安婦合意に基づいて拠出した10億円を活用する案も示しているという。

 これに対し、日本政府関係者の一人は「個人的な意見だが、とてものめない案だ。日本は賠償のつもりで基金を拠出したわけではない。姜氏は日韓関係を理解していない」と語る。そもそも、文政権は事前に、日本政府に大使を巡る人事の相談をしていなかった。元韓日議連会長という肩書などから早合点した「お友達人事」だと言われた。

■プライド高く古くさい

 もう一人が、新外相に指名された鄭義溶氏だ。鄭氏は盧武鉉(ノムヒョン)政権時代、国連事務総長候補に名前が挙がったこともあり、プライドが高いことで有名だ。北朝鮮の核廃棄を十分確認せず、米朝首脳会談の性急な開催を双方に持ちかけたことなどから、ボルトン元大統領補佐官から「ウソつき」呼ばわりもされた。トランプ政権が続いていたら、外相就任は難しかっただろう。

 大統領府国家安保室長時代は情報を独占したがり、極秘訪米の際、「自分が訪問したことを在米韓国大使館にも言うな」と頼んで、米側の失笑も買った。鄭氏を迎え入れる外交省では早速、その古くさいスタイルを揶揄(やゆ)して「始祖鳥」「アンモナイト」といった陰口が飛んでいるという。

 鄭氏の場合も、姜氏と同様、「知っている者同士で、残る任期をがんばってくれ」というお友達人事と言えそうだ。

 司法当局では、「大統領は三権分立と言ったではないか」と反発する機運も見られるという。過去、軍事独裁政権に司法を壟断(ろうだん)された経験から、韓国では「司法の独立性」を重視する。

 いくら文大統領の指示でも、せいぜい強制執行を遅らせ、問題をうやむやにするのが関の山という見方も出ている。

 日本側は1月15日の外務局長級協議で「強制執行は行われないという保証が必要だ。それがなければ、我々も動きようがない」と伝えた。

 大統領の発言は、今のところ、改善への道筋に非常にもろい薄氷を敷いただけに過ぎないのかもしれない。(朝日新聞編集委員・牧野愛博)

※AERA 2021年2月8日号